ひふみ神示の面白いところは、特定の立場に限定されずに内容を理解しやすい書物であるという事ではなかろか。
私は聖書に興味があって朗読していたが、だからといってカトリックでもプロテスタントでもないし、キリスト系教団の立場に自分を埋め込むことはせずにいた。
そしてひふみ神示を読んでみて、『自分を含めた日本人のために読みたい』という気持ちになるのと同じくらい『自分が世界のどの諸民族に生まれていても、同じように自分の民族の聖典を同胞のために読んだだろうし、一方で他の聖典にも興味を示していただろうな』と思うようになった。
まあつまり、日本語聖典の重要性を思えば思うほど…普遍的な『世界のどこに生まれてもそうしていた』感覚もまた強まって来たのです。
…で、これはわかる人にはもう説明するまでもない事だが…なかなか、一つの立場に所属して、その立場から物事を正直に表明している人にとってみれば、私のような『聖書読みつつほかの聖典も読む行為』は、二足の草鞋を履くというか、ある意味で裏切り?のように思えてしまうのかな?と感じたりもする。
そして、ひふみ神示を読むからと言って、私自身は諸々の解説などを勉強したりはしていないので、本当に独自に『これを唄いあげなくては!!』という謎の使命感に駆られてやっているだけなので、予言とかにもあまり興味ないのですよ。
…ただ、いざ実際に朗読と言う形でYouTubeにアップしてみて思うのは、どのような思想を持った人が聴いているにせよ、それはその人それぞれの形に沿って届いているのだろうな…と思えるので、今は不思議と安心して朗読している次第です。