【朗読】山の人生『一五 神隠しにあったものは生きている』柳田國男

先の章で述べられているが、日本の風習として鬼子殺しというものがある。

これは『普通とちょっと違う子』が生まれたときに即座に殺すというもので、これによって民衆が平均化される作用があったらしい。

で、柳田國男の記述の通りに昨今の物事を解釈してみると…

神隠しのほとんどは、やはり自殺ではなかろうか?ということが頭をよぎる。

勿論、中にはロマンチックな出奔や駆け落ちの類もあるだろうが…

自分が普通とちょっと違う、普通より劣る、あるいは秀でていても叩かれる…という場合の風当たりの強さは、案外、身内になればなるほどに強いものである可能性も(鬼子殺しの風習を顧みた場合)否めないものであると感じるので、子供の場合でも、もう家(村)に帰りたくないという気持ちからそのまま蒸発(死)するという選択を、存外簡単にしたものではなかろうか?とも考えられる。

残された者たちが、漠然とした罪悪感から『神隠しにあったものは生きている!』と考えたくなるのも無理はない。

というか、普通…という変な基準を妄信し過ぎる風潮が、脈々と続いてきたことを考えると、そりゃあ神隠し(つまりは自殺、蒸発)は多かろうなあ~と、思えてならないのですよ。

まあ、そういうの全部、山の神とか天狗とかの目に見えない精霊のせいに出来るのであれば、かえって後々、天狗が『天狗様』になって、これまた潜在的な罪悪感ゆえに突飛に崇められ始めるのも、合点が行くのですよ。

勿論これは、全く個人的に感じた、実に理屈っぽい解釈に過ぎないことを断っておく。