【朗読】貧しき人々(後編)/ドストエフスキー

すべての人間に欠点があり、その欠点故にすべての人間は、まったく等しく貧しき人々なのだ…というメッセージ性を感じさせるこの作品。

主人公のマカール氏は、割と典型的なアンチヒーロー(主人公の資質に欠ける)気質なキャラクターであるし、ヴァーリンカもその実、結局最後まで相手のボタンひとつさえ直してやらない怠慢な女でもある…つまり、二人とも、欠点や矛盾を持った、ごく普通の人間なのである。

しかしそれでも二人の関係は、聖なるものなのです、互いを自分自身のように思いやった聖なる関係だと思うのです。

主人公はいつまでも眼前で展開される事象に対して傍観している…それでも最後の最後に、目が覚めるわけだが…『自分自身が能動的に動くしかなかった』と気づくわけだが…。

『貧しき人々』読んでいるとあれこれと身につまされる。

特に主人公のスーツがくたびれている描写なんかはクるものがある。

なぜってこのワタクシの個人的な体験、地獄の20代…奨学金を返済しているときに、まさにスーツがボロボロになってきて非常につらかったブラック職場の事を思い出してしまうからだ。だからマカール氏の言葉にはつい熱が入ってしまう。

しかしながら、こんな風に自分の苦労話で善人?ぶりたくもなるが勿論、私とて、奪い取って、時に何よりも大切にされてしかるべきものをも何の躊躇もせず破壊しながら生きている面もある…つまり人間は、100%いい人にも悪い人にもなれないのだということを、『貧しき人々』を朗読するにあたって強く感じるのです。

人間は、矛盾しているものだと強く気づかされる。

そしてまた、愛する/思いやる/奪う/破壊するという事象に、自他の区別は無いと感じたりもする、つまり自分を破壊することすら、(世界=神=究極の視点からは)破壊したと換算されるように感じられます。※ドストエフスキーの『白痴』なんかはこういう視点から描かれたものなのかな?と思ったりもします。

さて話を『貧しき人々』朗読に戻すと…今回は、米川正夫訳のままに読み上げたので、ちょっと語気が荒い部分はあるかと思うが、かといって表現をやさしくした場合…最早意味が伝わらなくなる可能性もあるのではないか??と憂慮した結果、タブーとされる言葉も読むに至った。

もうこれは、(局などで大々的に利益/プロパガンダ放送するわけではない)あくまでも非営利の個人での個人的表現、そして個人での視聴に限るという暗黙の了解(空気)として、許していただければなと思う。

差別用語や使用禁止用語だけどんどん増えて行って、結局使用言語そのものを減らして、民間人の思考の幅を狭めようとしているのではないか?とすら思える。

ま、好きにやらせてもらいます。