最終話、果たして千枝太郎は…!?
さて、私個人の話をしますと、この本はずっと前に珍しく読んだ小説です、普段はあまり本は読みませんので、とても印象に残った話だったわけです。
登場人物が生き生きして、読書に慣れていない人でも読める構成がありがたかった。
なので『玉藻の前』のすべての録音編集を終えたとき、登場人物たちが…まるで映画のロケが終わった時のように、内輪で歓声をあげて、それから一人ひとりが素の顔に戻って、そしてどこかへ帰ってしまう…そんな感じがして、今となっては少し寂しいような気もします。
朗読に関しては、全部自分の地声でやれたので、その体感がなんとも心地よく、声の自由度を感じました。
ただ、編集作業がどうしても…持病のヘルニアのせいか座っていると頭が痺れてきて、これはちょっと、登場人物が沢山の話はもうできないかなと感じています。
『玉藻の前』に於いては、アナログ行為とデジタル作業の違いについて考えさせられました。
朗読したり台詞を言ったりというアナログ行為『動く行為』は身体の不自由をすぐに超え、楽しくできたし別に無理はしていない。
だが、編集作業はデジタル行為であり、いわば『静/制御』の行為なので、これに関しては残念ながら、刻々と身体の消費期限が近付いているようですな…普通に悔しい。
少し話は逸れるが、実は以前、とあるテレビ局で画像編集をしている方と繋がりがあって、その時に聞いたのが、テレビの編集画像補正の仕事は、基本的には35歳が現場の上限だそうな…字幕の作業なんかは大学生バイトに任せてしまうらしく、中年以降はそういったデジタル作業の第一線からは退くらしい。(勿論中年以降デジタル作業をやらないわけではなく、最前線でどんどん片づけてゆく作業からは退く、という意味です)
35歳になったらもう古株ということで、現場をあがってデスクになるらしい…少なくとも、その局ではそうだ、という話だった。
それを聞いた当時は、テレビの編集作業ってそんな若手がやる仕事なのかあ~とびっくりしたと同時に、自分もまた若かったので、いまいちこの手のデジタル作業のキツさがわかっていなかった。
でも今はわかるようになりましたね、繰り返すけれど、この『玉藻の前』でそれがとても身に沁みました。
一人一人の登場人物の台詞をその都度録音し、後で音量を均一にするという切り貼りのようなデジタル作業が、なかなか堪えた、5年前だったらもっとサクサクやれてただろうなと想像がつきます。
例えば毎日7~8時間、場合によっては十数時間も最前線で編集作業なんてしていたら、40歳の今、自分ならもうパッタリ倒れているであろう事がなんとなくわかります。
※画像編集と録音編集はまた要領が違うかもしれないが、一応デジタル作業(静/制御)ということで似たものという認識で語っております。
まあ、ちょっとの編集作業ならいくつでも出来るだろうが…それでもやっぱり、一日数時間に及ぶ編集が連日、となるとしんどいかなと、もうわかるお年頃になってしまった。
ですが同時に…アナログ行為、動の技ならば身体が動くまでは上達するし、やれるものだという感覚も芽生えました。
朗読そのものや、唄やギターや洋裁、植物の手入れ…こうしたアナログの技は案外死ぬまで出来るものなのだと確信しましたね、落語じゃないけど、声の表現に脂がのってくるのは案外老齢期なのかも?とすら思います。
ただ、それを『作品として』発信/保存するとなると、朗読(アナログ)+録音編集(デジタル)の両方が必要になってくる。
朗読をある日突然思いついて一人で稽古をやり始めたのが35歳。
朗読と出会うのがもうちょっと早かったらなあ…なんて、それは欲張りな願望かもしれません。
編集作業を減らすとなると、必然的に、短めのものや語りの部分が多いものをやるより他ないでしょうな…いやでもドストエフスキーをまた読みたいような…。
そういった事情もあり、唄なんかも模索しています(アナログ技量は膨大に必要ですが、時間が短ければその分デジタル作業の比率は減るので)。
次の動画…が、何になるかはわかりませんが、次の作品でお会いできるのを楽しみにしております。
『玉藻の前』は不思議と心の中にずっとあった作品だったので、朗読に仕上げることが出来て本当によかった、これで悔いが無く次の事に打ち込めると感じています。
ご視聴ありがとうございました!