今朝がた変な夢を見た、いわゆる明晰夢というやつで、しかも自分が死ぬ夢である。

その夢の中で私は幽体離脱状態で、霊として動き回っており、気が付いたら育った団地の狭い部屋の中に、両親とその他大勢の誰かと一緒に居た。
…素敵な幼少時代ならまだしも、自分の場合、霊になってまであんな築半世紀の…ボロくてカビだらけの性犯罪起こりまくりの場所(申し訳ないがこれは事実なのでそれ以外に言いようがない)に戻りたくもないはずなのだが、霊体化するととても素直になってしまうらしく、子供心のままで母親と談笑していた。
ただ、あまり折り合いの良くなかった父親などに至っては、霊となった私が目視出来ないらしく『白い球のようなものがある』とだけ言っていたのが印象的だった。
ふと、その夢の中で、母親が私を見て、きっぱりとした口調でこう言った。
『あ!いまアヤ(私)の肉体は心肺停止しました!臨終だよ!終わりだよ!』
あっけらかんとした母の宣告により、いきなり肉体の死を意識した私は、おお~ようやくか!これでようやく生きたと言えるのだ!そんな独特の胸の高鳴りを覚えた(死んでいるのに)。
周囲の人たち(みんな霊)も、自分自身も、現実で目にする葬式などとは真逆で、何処か祝賀の雰囲気である。

『もう肉体の旅は終わりだね、何処でも好きな所に行っていいんだよ』
そんな風に促されて、団地を出て空を漂ったりしていたのだが…
空を漂うとか知らない国に行くといったことは、夢の中では結構いつもやっていることなので、肉体的に死んだところであんまり普段と変化無いんだな…と半ばかっがりしながら、種々の風景を見たりした。
ただその移動速度がいつもの夢の中よりもだいぶ早いので、まるで自分が一点に立ったまま、周囲の風景のほうが瞬時に早変わりしているだけのような…最後のほうは高速過ぎて民族的な模様か曼陀羅でも見ているような奇妙な印象を受けた。※曼陀羅というのは時間概念を圧縮した状態を表したものだと感じた。
…そうは言っても曼陀羅も長時間見ているとさすがに飽きるし疲れたので、そろそろ帰るか…と思ってハッとした。
そう、もう帰るべき肉体は無いのだ。
いつも睡眠時に夢の中で遊んで集ったりしたそのあとに、肉体に帰るあの感じ…あれはもう、霊体となった自分には出来ないのだと思い至って初めて、私は、自分が死んだことを実感した。
そして霊体であるところの私の『さらなる眠り』というものを以てして、遂にこの自我そのものに幕が降りるのだということも理解した。
『いま眠ったら、本当に自分は居なくなるのだ』
ああもうこれで最後なんだ…そう思うと寂寥感というか切なさというか、ここに至って胸が締め付けられるような哀しみを覚えた。
気が付くと、いつもの布団に潜り込んで…そこで目が覚めた。

その夢の終わる寸前にわかったこともある、霊が眠るとき、その奥でさらに目覚めるものが在る、そんな手ごたえがあった。
霊体(自我)が眠ったその先に、自他の区別のあいまいなインスピレーション領域があり、この領域に於いて、およそ芸術表現と呼ばれるものすべてが、時間もすべて、内包されているのだろうと私には感じられた。
…言ってしまえば、インスピレーション領域で得た(受けた)ものを、肉体次元で体現するのが創作をする人の性(さが)なのだなと思う。
アートは宗教、とはよく言ったものだ。
だから全員が霊感というものを持っているし、生きていても死んでいても、ある意味同じとも言えるし、創作をする人に対面するといつも感じる懐かしさの理由もわかった気がする。※近い人であっても創作気質でない人に対しては、まるで別の国(星)から来たような感覚を抱いたりもする。

ちなみに、この夢の中で私は自作の服を着ており『霊になっても自分の作ったものは持ってこれるんだな』と満足していた。
しかし今回作ったリネンワンピースは実際には似合わなかった、夢の中では着れる♬…
話は逸れるが、曼陀羅や民族模様は時間圧縮だと感じたが、女性の服でよく民族服系のものがあり、女性視点だとすごく美しく荘厳に見えるのだが、いまいち男性受けが悪かったりするのは…やはり時間経過(着た人の過度な年輪)を感じさせるからだろうか?
…転じて身を守れそうな気がするので、やはり民族模様っぽい服は女性に人気があるのだろうと推測。
最近(ここ一年)唄うようになって、どうも頭の具合が変化したように思えます、だからこんな不可思議な夢を見たのだろうと思う、ぼちぼちやっていきます。