短編小説【獄中聖歌】

一人の若い修道士が今まさに牢獄に投げ入れられた。彼は牢番と一緒にやってきた老修道女にしきりに言った。「教会の秘跡により天国に行けるということを否定しているのではありません!その天国を否定しているわけではないのです、ただ、その天国があるとすればすべての悪人もその天国や教会の秘跡に関与していると私は思うのです、世界は関与から逃れられません、天国だけがどうしてそれらから完全に自由になれるとお考えなのですか!」

蝋燭の明かりだけが静かに橙色の輪を作り、岩穴を穿って作られたような湿り気のある壁を照らしていた。あたりは糞尿の匂いが漂い、番兵が上階で刻限ごとに足踏みするが響く。老修道女は口を開いた。「聖書を誰の注解で読みましたか?」若い修道士は急にか細い声で答えた。「要理学校で…習ったとおりに…」座り込む若い修道士からは老修道女の黒い編み上げ靴が目に入った。彼自身は裸足であった。「聖書というものは」老修道女はため息交じりに話した、その声は暗い牢獄に反響した。「注解なしで読むと大変に危険な読み物でもあるのです、きちんと教えの意味するところを吟味して読み、それから初めて聖書そのものを深く味わい、そこから霊感を得ることが可能になるのです…要するに」老修道女は修道士を…おそらくはこの場所に収容された悪人共の尿や足蹴りなどで錆び切り、ところどころ凹んでいる鉄柵越しに睨みつけて低く言った。その声は詩編を暗唱しているかのような淡々とした渇いた声であった。

「あなたは異端です、あなたを我が修道会つきの神父として迎え入れた私にも罪があります、跣足の習慣も我が派では異端と見なします、断りもなしに裸足になるなど言語道断です、教区司祭にも私から報告しておきます、教区司祭の教えに背くというのは国王様に背く罪でもあります、お分かりですか?あなたは万人救済論を説いています、それは教会の衰退へとつながる邪教の教えです、確かに…教会というものは…万人救済論を説いていません、天国を選ぶ人を救うのです、ですがそれが愛の否定であると言うのはあまりにも浅はかです、神の代理人である司教様や神父様から精霊を授かってきちんとした手順を踏んで祈る人にだけ天の門が開いているのです…だから教会の祈りが必要なのです、万人救済論でないからといって決して、口にすることすらおぞましい野蛮な選民思想とは全く異なるものです、聖書の通りキリストの肉体を拝領することによって我々はひとつになるのです、繰り返しますがこれは愛の否定ではありません、神様は、頭を垂れて従う子羊を欲しておられるのです、あなたは教会を汚した罪を、死をもって償いなさい」老修道女は何の感情も見せずにこれだけのことを言ってしまうと、鍵を閉める作業を終えた牢番と共に階段を上がって去って行った。地下牢獄に残された若い修道士は意気消沈したようにうずくまった。

「おい坊主、若けえの、おい、返事しろよ修道士様よお?」

てっきりこの地下牢獄には自分ひとりだと思い込んでいた若い修道士はぎょっとして飛び退いた。暗がりに目が慣れてくるとどうやらこの牢獄は3区切りになっていて、そのうちの真ん中に自分が居て、端の方に一人の罪人が寝そべっているらしかった。湿った牢の中には排せつ用の桶とわずかな食物を入れるであろう椀が転がっていたがどちらも汚れていてほとんど区別がつかなかった。声の主は修道士の居る仕切り柵までにじり寄ってきてまた言った。「おい聞いてんのかボンクラ、おい、お前だよお前」修道士は小声で答えた。「すまない気が付かなくて、何だい?」蝋燭の揺れる輪をちょうど逆光に受けた人物は修道士からはずた袋か何かのようにしか見えなかった。男は言った。「修道士様よお、なんか持ってるものくれよお」「すまない、生憎何ももっていないんだ」男は少し酔っているのか呂律が回っていない様子だった。「じゃあこっち来いよお」修道士が近寄ると男は柵越しにいきなり修道士の脚に掴みかかった。修道士は臭い息とガサガサした手触りとを感じ、声を上げる間もなく呆然としているとしばらくして男は手を引っ込めた。

「お前靴も履いてねえのかよ!たまげたねこりゃ!何も持ってねえ!これじゃ奪い取りようがねえ」

修道士は隣の牢の男をようやく見据えた。男は顔中あばただらけで歯が抜けている。歯抜け男の歳はわからないがその酷い風体からして乞食だろうと察せられた。修道士はかつて自分が市場の近くの職業学校へ通っていた事や、そこでの奉仕の時間に市場を巡っては募金を集めて回ったことを思い返していた…職業学校には馴染み切れなかったが募金集めと祈りだけは好きだったのでそれを持って教会へ赴き、教会入口に捨てられた子供たちの為に使ってくれと言って喜捨していた…そんな子供時代の思い出の中にはいつも路上生活者が居た。彼自身も手に職がつけられなかった方であるので級友たちからからかわれていた。お祈りだけで飯は食えねえ行く末は哀れな哀れなお祈り坊や…彼らのはやし立てる声にもめげずにお祈りをしていたらなんとか、孤児である自分自身も要理学校へ入れてもらえ、奇跡的に修道士に成れたのだった。…通常では孤児や片親は神の結婚の秘跡にあやかっていないという理由から信仰生活を断られる。修道士は隣の牢の歯抜け男を見て胸の内で思った…この人は僕自身なのかもしれない…歯抜け男はふたたび口を開いた。「酒、ねえか?」あるわけがなかった。歯抜けは返事が無いのに苛立ってまた続けた。

「お前何して牢にぶち込まれたんだあ?女と寝たのか?俺は女と寝るのが大好きでよお、売女なんかじゃねえよお、生娘だよ生娘!ベールを被った生娘を犯すのがこの世の楽しみでよお!教会の祈りの後、娘っ子の父親たちが会合している間に引っ攫うんだよ、母親は大抵女同士でくっ喋ってるからな、娘は娘どうし、で、子供みたいな生娘が案外一人でぽてぽて歩いてんだよ、たまんねえよ、奴ら馬鹿だからお祈りすれば助かったとかお祈りが足りないからこういう目に遭うとか言って親子揃って大泣きしてやがる、あれを見るのがたまらねえ」

隣の牢の歯抜け男は修道士が嫌悪感で押し黙っているのをさも満足げに見てさらに続けた。「お前女兄弟居るか?まだ若いな、母親は居るか?なあ答えろよ、答えろ」修道士は答えた。「居ないよ、私は孤児だから」歯抜け男は修道士の答えにがっかりした様子で言った。「俺はな、男にはこう聞くことにしてるんだよお、そこいらの男みたいにただ娘を犯したいってわけじゃない、そういう奴らにこう聞いてから、娘とその兄弟、その父親までもが悲しむことすべてが俺の、楽しみなんだよわかるかあ?俺はすべてを犯してやりたいんだ、そのためにはただの女じゃ駄目だ、生娘がいちばんいい、ぶっ壊してやりたいんだよ、すべては繋がっているんだからな、繋がりのある所をこうやって突いてやるわけだ」歯抜けはここまで言うと卑猥な仕草をして一人でせせら笑った。「お前みたいなみなしごは大切なものを何も持ってねえ、つまんねえよ、なあ聖、童貞様、お前は何をやらかしてここへ入れられたんだ?異端って言われてたなあさっき」修道士は答えた。「私は…すべての人が天国に行けたらいいと思っていたのです、教会もそのように教えればよいと思っていたのです」

歯抜け男は嘲りを込めて噴き出した。「すべての人ってことはこの俺もかあ?俺も、俺が犯してやった大勢の生娘や大勢の両親たちも仲良く天国へ行くって、そう、お前は言いたいのか?そりゃあ俺が許しても世間様が許さねえよ!!なんだお前、俺の味方か?お前あれだなさては、人並みな暮らしをしている奴らを、教会に来ている奴らをその実、恨んでるんだろ?みなしごだもんなあお前」修道士は両手で自分自身を抱きかかえるようにして震えていた。牢内は冷えていた。歯抜けは言った。「天国へ行くには教会へ毎週通ってしっかりお祈りせにゃならん」そして大きく息を吸って続けた。「俺だってそれをすれば天国行きだ!偽善者共め!!」修道士は腕を解いて歯抜けを見て言った。「…奇遇ですね、私が教会に対して言ったのもそんな事です、それが彼らの怒りに触れたんです」歯抜け男はいささか拍子抜けして修道士を見やった。修道士は続けた。「あなたはそうやってすべての連鎖を感じています、感じ方は違いますが私もそうです、天国というものは本当に存在すると私は信じています、ですが」遠くで馬のいななきが響くのが牢内に小さく反響した。「…天国というものすらすべてに関与しているとすれば、あなたのような人間ですら、天国に貢献していると言えます」

牢内は静まり返っていた。番兵が上階でまた足踏みをした。歯抜けは呆気に取られて小声でつぶやいた。「俺がこういうことをするのが天国のためになっていると言いたいのか?」「いえ…直接的には違います、ですけれどもあなたがそのような性質を持つに至るには、様々な人や生き物の関与があったと思うのです、つまり、聖人の方々が聖人になられたのにもあまたの人々や生き物の関与があって聖徳を成し得た、よって悪人を悪人たらしめるのも悪人一人にはあらず、そう言いたいのです、天国もまた天国を望む多くの霊魂が行き着く聖なる場所だと思いますが、その聖なる場所を構成しているのは…言ってしまえば神の上智を含めたこの世の全てです、そういう意味で、あなたですら、天国を作り上げていると私は言いたいのです」修道士は果たして相手が聞いているのかあやしいと思い、身をよじって隣の牢の中を見た。歯抜け男はこちらを向いたまま呆然としていた。修道士は言った。「…私が私として今こうしているのもあなたの存在があるから、なのだと思います、誰一人としてこの摂理から逃れられないと私は思うのです」

歯抜け男はぼそりと言った。「なあ…お坊様よお」すっかり気落ちした風でさっきまで漂っていた嘲りの雰囲気は無い。「なあ、俺は…物心ついたときからこうなんだあ、女を犯したい、泣きわめいているところが見たい、家族揃って参ってるところを見るのが痛快なんだ、いっぱしの家庭を壊すには娘を犯すのが一番だからなあ…理由なんてないんだ、なあ、俺には悪魔が宿っているのか?」歯抜け男は膝を抱えて修道士を見つめた。修道士は答えた。「もちろんあなたを善人だとは言えませんが…全体の意識の中で、全体というのはキリストの定められた異邦の民も含めた人類全体です、その人類全体の持つ決定的な歪み、抑えた欲望や抑えた怒り、自分が人よりも劣っていると感じる時の強烈なわだかまり…そういう普段、人前には出さない悪魔的な部分というのがありますよね?その悪魔的な部分を、あなたは生まれながらに他の人よりも多く引き受けたのかもしれません、重い十字架を背負っているのかもしれません」歯抜け男はよりいっそう小さな声で訊ねた。

「…じゃあ…じゃあ…俺は…なんでそんな風に生まれついちまったんだ…?なあ?答えてくれよお、修道士様よお…やっぱりあれか?お袋のせいか?不品行のせいか?不品行で神の罰を受けたせいで悪魔の子を授かったのか?それとも…異端の教えで前世ってのがあるが、それのせいか?」

「違います」修道士はきっぱりと言った。「あなたがあなたであるのは神の御業が現れたに過ぎません、聖書にもそう書いてありますし、そのように霊感を受けました」歯抜け男は口を震わせて叫んだ。「俺は…」しかし言葉が続かなかった。その言葉を継ぐかのように修道士は言った。「あらゆる生き物や人類全体が一つの大きなパンになるのを私はよく考えます、パンをよく見ると凹んでいるところやよじれているところもありますが全体でひとつのパンです、全ての命はそのように出来ていると思うのです、今のあなたはその大きなパンのたった一部分、凹んで、かまどで焼かれた時に偶然焦げた部分です、その大きなパンを大勢に配るために何等分にも切り分けます、何等、何十等分、何千等分…切り分けられたうちの一枚のパンがあなたです、今のあなたが醜い衝動に駆られているのは全体のうちの一つの側面なのだと私には見えます」修道士は相手を見据えながら続けた。「誰でも持っている欲望があなたには多くあった、こらえきれないほど多く、その性質を神は許された、神の上智は計り知れません、けれどもまたすべてが一つのパンであるならば、あなたの犯した娘たちもまたあなた自身なのだと私は思うのです」

「俺…自身?」「そうです、大きなパンの焦げたひとかけらがあなたなら、あなたの犯した娘たちやその家族たちもまた、そのパンの綺麗な一かけらに過ぎません、あなたは自分を虐めて喜んでいたのですよ、全体全部が幸福にならない限り真の天国には移行出来ません、でも少しずつ、だんだんとよりよいパンを作るために…よりよい大きなひとつのパンになるために私たちは都度、死ぬのです」歯抜け男は自分の手のひらをまじまじと見つめて震えながら言った。

「俺は許されない」

「許されています」「でも天国へは行けない」修道士は静かに微笑んで言った。「普通、天国と言えば秘跡が必要になりますが、私にはそれが分からないのです、ミサをあげることも祈りをあげることも…神から選ばれた司祭が皆に祝福を与えることも、聖なるホスチアを与えることも私は素晴らしいと思っているのです、そして天国もあると思っています、ですが天国がもし存在するとすれば…そしてもしそれが教会によって開かれる扉を通って行ける場所であるならば、教会というものに関与しているすべてがその幸福に預かることが可能だと私は思うのです、つまり教会が立っている土地、教会を建てた石工たち、その石工たちを食わせたであろう家畜、その家畜を育てている農家…そうやってすべての人が救済にあやかることが出来る…そう思わずにはいられないのです」

歯抜け男はふたたび修道士の方へにじり寄って囁いた。「それが聖書に書いてあるのか?」修道士は悲しげに笑いながら首を振った。「いいえ、でもイエス様が敢えて、異邦の民までもを救済すると明言されていますので、私にはこう感じられるというだけの話です、もっとも」修道士は大きくため息をついた。「…そのせいで異端審問に引っかかってこうして牢に入れられ、異端の教えが広まらないように、私は早いうち…もしかすると明日の朝には処刑されてしまうでしょう」

すっかり酔いの醒めた風な歯抜け男は明け方の寒気とは違う冷気に当てられてがたがたと震えていた。「お前、死ぬの怖くないのか?お前を…俺はお前が悪い奴には見えねえ…お前を殺した奴もまた自分を虐めているってことになるんじゃないのか?」修道士は首を振った。「それも違うと思います、イエスキリストを刑に処した人々はどうされたか、あなたも知っておいででしょう?全員許されています、その屈辱の血を真っ向から受けているにせよ、許されているのです、愛されているのです、彼らはやるべきことをしたのです」歯抜け男は拝むような姿勢で修道士を見て呟いた。「俺を祝福してくれ…なあ…俺は今まで坊主ってのが大嫌いだった、あんたは何かが違う、そうか、悔い改めよって言わないからか…?二度と罪を犯すなって…上から目線で言わないからか?」修道士は歯抜け男の意外な素直さに心から微笑んだ。「言ってほしいのであれば言いますよ、それに、私が他の人と違うのは私が異端だからです」歯抜け男は尚も修道士に迫った。「異端でもかまわねえ、あんたは…とにかく俺に祝福を与えてくれ!」修道士は静かに立ち上がると柵越しに歯抜け男の頭のあたりに十字を描き、それが済むと言った。「さあ祝福を与えましたよ」歯抜け男はにわかに両手で自分自身をまさぐって言った。

「何かが…あと少し…お前らの言う神なのか…俺の…全部の生き物の神なのかはわからねえが…あと少し何かが…あともう少し神に近づいてみたいんだ!こんなのは…こんな気持ちは…」

「祈りたいのですか?」「わからねえ」修道士はしばらく思案したあと不意に目を輝かせて提案した。「じゃあ、神を讃える歌を歌いましょうか?今は真夜中です、少しくらい小さな声で歌っていても大丈夫ですよ、私もあなたと歌いたい気がします、聖歌を歌いましょう、全てを許される神に誉あれ、我々に許される美の最たるものは賛美することそのものなのです、何の歌ならわかりますか?」歯抜け男はもじもじと言った。「…俺は…聖歌とかはよくわからねえ、小さいころから、クリスマスと葬式にしか教会へ行ったことがねえ、施しはいつも受けるが…」修道士はにっこりと微笑んで頷いた。「クリスマスとお葬式!私はどうせすぐ処刑されます、お葬式の歌も今自分のために歌っておきたい気分です、あなたと歌えるのであれば神の慈悲もその分与えられると私は思います」そして静かに歌を口ずさみ始めた…湿った地下牢獄内に小さな祈りの歌が響いた…クリスマスの聖歌、主のみもとに近づくための聖歌…。歯抜け男はほとんどハミングするように修道士の優しいゆっくりとした旋律に追いつこうと、少し揺れるような音程で歌っている。おそらく生まれて初めての歌であろう。上階に居る番兵もこれには目を瞑ってくれているのか、あるいは本当に眠っているのか何も言わなかった。

二人の獄中聖歌は夜明けまで続いた。

上階からうっすらと日の光が差し込んで来た。聖歌は自然に止んだ。歯抜け男は宙を見つめて誰にともなく呟いた。「…俺は…今までこんな気持ちになったことはねえ…」その時にわかに騒がしい気配がして鍵を持った牢番が降りてきた。「おい、修道士一名、出ろ」修道士はすっと立ち上がると歯抜け男に向き直って言った。「楽しかったですよ、昨日の夜はあなたに何もやれるものは無いって言ったけど…私はもう死ぬわけですから、この服でもなんでも、あげましょうか?」「要らねえ!!…いらねえんだ」もう沢山もらったんだと歯抜け男は心に叫んでいた。「あなたとは、あの歌の通り、新しいエルサレムで会えるといいですね」修道士はまた微笑むと番兵に縄をかけられ、小突かれて階段を上がっていった。歯抜け男は連れられてゆく若い修道士を狼狽しながら見送り、ふたたび牢の閉まる音だけが響いた。それから数日後、歯抜け男は恩赦を受けて釈放された。どうやら件の修道士が誰かに口添えしてくれたらしかった。

一晩で変容した歯抜け男は口の中で聖歌をずっと歌っていた。顔からはすっかりあばたが消えた彼が、その後の数十年の月日をどのように生きたのかは…少なくとも獄にぶち込まれるまでの彼を知っていた者たちには知る由もないことであった。老いた流浪の聖者…聖なる歌を絶えず口ずさむこの聖者の来歴を知るものは、最早この世の何処にも居なかったのだ。