散文詩【今でもお雛様を買ってもらった日を覚えております】

私は今でもあのお雛様を買ってもらった日の事を覚えております。珍しく人形屋さんへ行ってどれがいいか選ばせてもらったのです。まだ妹は生まれていなかったと記憶しておりますので2歳くらいでしょう。何重にも赤絨毯が連なる人形だらけの中を素通りしていくとまだ若かった母が私の手を握って意味ありげに立ち止まり、「カップル以外の邪魔ものが居ないやつのほうがいいよシンプルイズベスト」等と暗に安いものを半ば強制的に私に軽薄な様子で提示してきました。祖父母は苦笑して後ろから「何でも好きなものを選ばせてやりなさいな」と助言しましたがそれがまるで聴こえない風に「ほれ、この中から選びなさい」と何の悪気もなく母が言うので私は改めて人形たちを見回しました。そのフロア一帯が赤く染まっているかのような印象を受け、目がくらくらしてきましたが不可思議な高揚感を味わってもいました。お雛様の纏っている着物が鮮やかな紅色かピンク色かで迷いましたがそこは赤瑪瑙のような落ち着いた色にしようという心理が働き、次いでお雛様の髪型は横広がりな丸髷風がいいのかそうでないものがよいかを考えました。平安時代風なアレンジがなされているとはいえ丸髷が既婚者の髪型だと気付かないほどに幼いながらも私は、あまり丸いのは年増っぽくて嫌な気がしていました。可笑しいでしょう?知らないことを人間は物事をよく見ようと意識した時に時代を超えて知ることが出来るのです。

あ、と思ったときに一体の女雛人形と目が合いました。

目は優し気に割合大きく、眉は薄く丸く、下唇に紅が引かれておりほのかに微笑んでいるかに見えました。彼らは屏風の内側で一つの小さな世界を完結させていたのです。これにする!そう言って指をさし、母に伝えました。あの時の私の唯一の間違いは男雛への関心が一切無かったことです。二人の調和を観ずに女雛をまるで自分の女官だとでもいうかのように女王然と指名したことです…得てして人形屋さんへ連れて行ってもらった女児というものは大抵お姫様を飛び越えて女王になってしまうものです…女雛は私自身ではなく私の召使いでしたし同時に圧倒的で完全無欠な女王のイデアを体現しているという点では聖母でさえあったのです。

私は人形屋さんを出るといつもの心細い子供の心境へと戻りました、はじめのうち若い両親は面白がって「嫁ぐのが遅くなった方が長く一緒に居られる」と言ってわざと三月いっぱいお雛様を飾っていました。ああ、あの頃の私たちは確かに世界の内側で幸福を完結させていました。だって女雛と男雛は人形屋さんを後にした私にとって、詰まる所母と父でしかなかったのですから。私があれを自分の婚姻の習わしだと体感したのは妹が生まれてからの事です。しかしそれでは遅すぎたのです。一度これと決めた身代わり人形を変えることは出来ないのです。人生がそうであるように自分自身や自分の振る舞いや選んだ物事を無かったことになど出来るはずがないのです。仕切られた平安があまりにも遠く、桐箱の香りがかび臭くなり、狭い部屋を家族の誰もがやがて恨むようになったころに私は家を出ました…もう塵となった女雛は私よりもちょっと早くこの世から消えたに過ぎません。男雛すら私であったと私が知るのは、おそらく全てが終わってからでしょう。婚姻とはこのようなものであったと知るには全部が遅すぎたのです。それでもこの世ならざる彼らは古いよしみで其処ここに現れては、年老いた莫迦な私へ教訓めいた笑顔を優しく向けてくれるのです。私は今でも…あのお雛様を捨てた日の事をも覚えているのです。そうですとも、これが女というものなのです。女を女たらしめるもの、時に何かの呪縛さえ与えてしまうもの、あるいはそれを以て強力な護法になり得るもの…それが雛人形という、女にとっての祝福と呪術の神秘体験なのです。