散文詩【名も知れぬ街の思い出】

枕に頭をつけているのは自覚しているつもりではあったが時計を見て安心し、目の奥に風景が広がってゆくのに身を任せた。…僕はそれを余すところなく見て参加までしている。海辺の街。懐かしく胸が締め付けられる結婚式…生徒たちは花嫁姿の担任教師にエールを送る。「せんせーきれーだよ!」胸に秘めた自分の想いを打ち明けないまま参加した。綺麗だよって言葉だけが精いっぱいの僕なりの告白だった。晴れ渡った春の空、小さな駅まで一行はわいわい騒ぎながら歩いてゆく、サプライズでいつも厳めしい老教師が登場し花嫁姿の教師に花束を贈り一言『こんなに生徒に慕われているなんて、悔しいなあ!あんたには負けたよ』と漏らす。その言葉に生徒たち一同は歓喜とも感動ともつかない歓声をあげ、照れている老教師を抱擁する。涙を浮かべる担任教師を女生徒が囲む。こうなるとすべてが現実世界を小道具に見立てたドラマでしかない。ほのかな桜まじりの潮風と共に虹色に光る貝殻や真珠が空の上から名も知れぬ街の全員へと降り注ぐ。…夢のような光景…ああみんな元気かなあ?みんながみんなをみんなと思っていたあのクラスは最高だった。男女共ども誰が誰に話しかけても大丈夫だったのはやっぱりすごい事なんじゃないかな?真昼の田舎町の進学校諸君よ永遠なれ。あの時の思い出を今でもこうして鮮明に蘇らせることが出来るなんてなあ、青春時代が幸福だった事を具体的客観的に示すことって出来ないけれど僕はいい人生を送ってきたんだ。でも、海がなくっても生きて行けるか不安だったよ東京なんてどうして行かなきゃならないのか誰にもわからないまま生徒の大半は上京した。先生はその後も先生を続けたという。普段から素敵だったなあ…年をとっても彼女は美しいんだろうな。今度同級生を誘って会いに行ってみようか?あ、あの駅はもう利用者が少なすぎて閉鎖されてしまったんだ。というかあの高校も合併したんじゃなかったっけ?ため息、せめて今日は路面電車に乗って浜辺の方に行ってみようかな…えっ?おいおい、ここ東京じゃん、18の時のままで時間が止まっちゃってるよお、そういえば母の口癖もこれだったな、母の?そう母の、というか母親の口癖なだけだ。僕は別に18歳で生活が変わるっていう人生送ってないよあの団地について何一つ恋しいと思った事は無い。皆無だ。

枕の感触が後頭部に広がると同時に自分の頭が睡眠そのものに疲弊していることを感じて寝返りを打ちかけ、脚の付け根に生じる疼痛に舌打ちする。

海に行こう海に。モダンな駅舎はそのあとどうなったんだっけ?あんな小さな街の市民では賄えないほどの風光明媚な街は観光客が来るという目論見が大いに外れ、哀れ財政難でどこもかしこも店じまいしたのだった。閑散としていたが歩くには最高だったな。誰も居ない観光地みたいで、何もかもが始まらない観光予定地にだけ宿る神秘がそこにはあった…浜辺でアイスでも食べて昔みたいにぼうっとしよっかな。でもその前に仕事行かなきゃ…そこでようやくきっぱりと目が覚めて時計の針が少し傾いていることを悟った。

えええ全部夢だったのか???

青少年の初恋を体感してこんなに胸が苦しいのに?みんなの事を思い出せるのにそれが夢でしかなく、二度と会えないどころか会ってすらいないなんて、名も知れぬ街そのものが数分の夢舞台の大道具でしかなかっただなんて、多少なりともショックを受け、起き上がってから僕は尚も考えた。もし死ぬ間際にこういった明晰夢を見たら…それが現実の強度よりも著しく強い感動をもたらすものであったら、幸か不幸か夢見がちな僕はきっと全部勘違いして人生に終止符を打ち、あの世へ行ってしまうのだろう。現実よりも強い感動は頭の中及びそこから続く夢線路にゴロゴロしてるじゃないかと自分に語り掛け、住んだことの無い、存在したことの無い街へと思いをはせた。でもあの場所は…物理的には行けないけど、旅行前に考えている目的地みたいに確かに何処かに存在しているし、自分がどこの誰かなんてことは本当には誰にもわからないはずだ。しかしながらこの名も知れぬ街の思い出を僕自身の思い出として語るなら、それはこの世では騙る事になってしまう。耳元に残る祝福のざわめきを名残惜しく聴きながら、僕はしぶしぶ起き上がると支度を始めた。