散文詩【9月の街は海の中】

久々の9月の街は海の中のようだった、杖をついて見る世界は、ガラス板を一枚隔てて覗き込む海のようだ。
人々は魚の群れみたいに渦を巻いて移動している、私はその渦をこちら側から見ているだけ。
何かが決定的に変わってしまった、これでもぎりぎりまで粘って粘って、そのざまがこれだ。

杖をついているとすべての挙動が遅くなる、杖は220グラム、コップ一杯の水を持って歩いているような感じだ。

そうやってその一杯の水をこぼさないようにこぼさないように、このコップ一杯の水の中には私の世界が入っているんだからと、どこかで恐れながら足を運ぶ、もう人間社会が遠のいてしまったらしく、痛む指先までもが小銭を探すのを邪魔している。
海での勝手がわからずに会計時にもたもたしても、人間様はお優しい、私がこっち側の生き物だということで堪忍してもらっている。
泳げなくなっても堪忍してもらっている。
そう、みんな優しいのだということを私はよくよく知ってゆく。
みんなみんな、優しいのだ。

その優しさに触れると私は、はやくこの海の中を出て故郷へ帰りたいと思う、以前この海の中で自分なりに泳ぎ回っていたことが私の脚に藻のように絡みつき、私を動けなくさせる。
その優しさを私も持っていた、持っていたよ、そして何を思うわけでもなく表現していた、優しさが善意なのか演技なのかそんなことはどうだっていい、あれは一種の表現だ。
その表現は人間社会という巨大な水槽の中に組み込まれた光だ、私が見ているんじゃない、私は見られているわけでもない、私はその、海のような場所にはもう居ないだけ。
仕事上りは海から上がったようだった、そういうわけで街中を支配するのはいつだってわだつみの神だ、人間社会というのは魚たちが群れを成す大きな大きな水の中。

誰も見たことのない水平線の向こうを目指す、止まることのない渦の中。

耐えがたいのは痛みだけではなく、渇きなのだと改めて知る。
海の中を泳ぎたいと願う、かつて小さな小さな魚であったところの私の渇きなのだ。
いくら人間社会というものが、理想の全く途上でも、人間社会の仕組みにつながることでしか癒せない渇きというものはある。
のどが渇いた渇いたといって手を伸ばしてももう触れられない世界というものを、恋しく思うことがある。

杖をつくときにも非常に決心がいる、まだ平気まだ平気、今日はたまたま脚の具合が良くないだけ、ほら、いつも数日放っておくと治ってたりするでしょう?
まだ平気、そうやっていつも気のせいだと思い込もうとしてきた、だってこっち側には来たくなかったから。
海から上がってそのままの渇いた陸地、そこにいったん住み着いてしまうともう、ガラス板無しには海に入れなくなるから。
みんなの泳ぐ海にはもう、入れなくなるから。
そうやって海の中の異物と化した私の涙が、ちょうどコップ一杯分。

小さな小さな水の中に私は目を落とす、9月の街はお天気雨をぱらぱらと降らして虹の中を歩かせてくれる。

傘を差さずに、街に降る雨を浴びる、これで渇きがすこし癒えたでしょう?
そうやって生きていくのだ、もう泳げないけれど、そうやって生きてゆくのだ。