ショートショート【オカルト話】

『新約聖書には、外側だけを洗い清めても無意味だと書いてある、人は内側から来るもので汚れてゆくと書いてある』
口髭の男は言った、僕は黙ってそれを聞いていたが、そろそろ雨が降り出しそうなので辺りの様子をそれとなく覗っていた。秋の丘陵公園は、音も無く散ってゆく落ち葉と灰色の雲、何だか絵画を見ているようだと僕は思った、遠い遠い…宗教も倫理観も違う異国の風景画。

…口に入るものは人を汚すことは無い。かえって、口から出るものが人を汚すのである…

まさにこの理屈でマスクをつけている知人と僕は今朝方挨拶を交わしたことをふと思い出したが、目の前の口髭の男に対して、僕は何も言わなかった。確かにイエスキリストはそういう意味…飛沫が汚いという阿呆みたいな意味でこの言葉を発したのではないだろう、彼は再び口を開いた。
『悪い時代ほど証を求める、証、証、目で見ても尚信用しない』
聖書を読んでいて不思議な感覚に陥るのは、ひとえに時間概念が捻じ曲げられるような錯覚を生じさせるからだろう…過去に起こったことを読んでいるのではなく、何処か時間の無いところから絶えず呼びかけられているような気分になるのだ。僕は言った。


「確かにそうです…聖書を読むと、変な薬を注射してそれを証明するのなんか馬鹿げてるって書かれているように思います。そうとしか読めないところがあるんです…ただ、旧約聖書は新約とは違って、穢れ思想って感じがしますね、何か起こるとすぐに清めの儀式を行って、誰か従わないと神がそれを罰する。新約と旧約で言ってることが正反対に感じたりもします。ひょっとして…僕らのこの世界は旧約の世界観なんですかね?僕らはまだ旧約を生きているんでしょうか?」
口に布を当てて穢れを清めるだなんていう理屈がまかり通るとすれば、世界はまだ紀元前なのではないか?この問いに口髭の男は静かに頷いた。

『君は我々の世界にイエスキリストが居なかったと思うか?それとも居たと思うか?あるいは…まだイエスキリストは生まれてさえ、存在さえしておらず、これから生まれてくると思うか?』

雨が降って来た。彼がさっと手を差し出してきたので握手に応じ、初対面の僕らは会釈し合って一瞬で別れた。正直その全部が当てはまるのではないかと僕は口髭の男の問いに内側で答え、広大な丘陵公園での、世間一般から考えたら完全なオカルト話に興じられたことを…心から嬉しく思ったのだった。