人生…もっと早くから『全然大丈夫だった』と気付いていればよかった。

私あなたの事愛してるの、あなたの為ならなんだってするわ…みたいな貢いだり奉仕したりする心境、何じゃそりゃと長年全く共感出来ずに来たがとうとうここに来てやっとわかった。確かに私は今まさに貢いでいる、内職代を全てつぎ込んでいる…まだ咲かない花に。今思えばコスモスの種1キロ8000円なんて安かった、フフフ、金銭感覚も狂ってきている、しかし私は幸福だ。

もう何度も見た光景…まるで永劫の輪廻の如く私はこの写真の場面を繰り返している。説明書を読み、バーミキュライトなる人工砂を湿らせた場所に球根を慎重に置いてゆく…ラナンキュラスだとかアネモネだとかの給水作業必須の球根をカビさせること数回、百を超える数を全滅させること一回…。通常の思考回路の人ならばもうあきらめるのかもしれないが、まさに博打でㇲってもまた金をつぎ込むタイプの往生際の悪い人間は何度でも同じ馬…じゃなかった、同じ球根に入れあげる。これってもしかして、私、水商売とかに(男女問わず)ハマってかなりの金額をつぎ込む人なんかと同類の人間なのではないか?

でも、みんなの笑顔が見たいから…!!!

人間ってのは簡単な生き物で、他人と共感出来たと思える瞬間を目指して動いている。けれども一点付け加えるならば、その共感する地点が…古今東西老若男女を問わず晴やかな事柄や、古今東西老若男女を問わず、誰も責めず、誰も除け者にされず、尚且つ楽しい事柄であればいいと私はかなり強く思って居て、そのような意味ではまさに(自称)芸術向きな人間であり、花壇は何よりもわかりやすい形の芸術な気がしている。

一年を半分に区切ったら、10月には土を耕してアルカリ調整して春用に球根を植えよう!と意気込んでいたが、それは思考状の暦であって…実際の十月はまだ日中気温が高く、寒い時期用の球根たちはたちまち腐ってしまう…これに気が付いたのが先週で、それまでにもういくらつぎ込んだのかわからない。でもいいのあたし幸せ…と、案外思って居る。

全く以て不可思議な理屈で、世間の風潮が狂えば狂うほど、私のような狂人はみんなに受け入れられやすくなるのかもしれない。みんなって誰か?というと名前も知らない近所の人たち。数えたわけではないが沢山の人たち。選挙になると陽性率の下がる謎の病は最早、精霊や死者の霊、あるいは神同様…その存在の是非を問う事はタブーとされている昨今、マスクも基本的に人間の性悪説を強めるのでなんかうんざりする…はずなんだが、ここに自分の人生を当てはめると、性善説の満ち溢れた華やか且つ弱肉強食の世界(今まで)では、私はおよそ何処へ行っても若干変人枠というか、非常に苦しい思いを強いられてきた。

しかし世界が狂ってみるとどうだ、私、物理的現実的には今じゃすっかり善人じゃないか!!ワハハ!!

と、まさに狂人さながらに笑いが出てしまうほどに、ノーマスクで鼻水たらしているにも関わらず何だか受けが良くて面白い状況である。生来大多数の人とは全く考えが合わないと思って生きてきたし、子供のころからテレビもニュースも嫌いで、お陰で自分は人間嫌いなんだと根底から考えていたし、至極普通に森に籠ろうかと思うほどであったので、どれだけ世論が狂おうと、それは私にとっては生まれた時からスタンダードというか、取り立てて言うほど疎外感を感じないのだ。世界は狂ってる、それは元からだと私は言いたい。けれども危機感はあるので、私なりに、物理的現実的に周囲を元気づけたいと試行錯誤しているところだ。だから人間嫌いというのは私の長年の勘違いだったな…。

さて、狂ったコロナ禍が長引くほどにウケの良くなる変人、という謎現象理由を真面目に考えるとおそらく…花壇(半違法)やゴミ拾いが功を奏したのは…二つの要因があるだろう。

①私自身が『明るい世界に馴染めない変人』という自己嫌悪幻影を(半分はまさにメディアに洗脳され)作り出し過ぎて勝手に病んでいた

②世界が性悪説+脆弱説を唱え始め、暗くなったので、善悪問わず『自分なりに生きようとする意識』…あくまで自己完結型の強引さや我侭さすら、周囲には(性善説+弱肉強食性といったコロナ以前の旧世界を彷彿させるため)懐かしく好印象に映る

③私自身の求める共感共鳴というものが、自然や植物を含んでおり、従って特定個人や特定団体にではなく、自然や地域などの大規模なものに対して奉仕型であったため、ほとんどの人が疎外感を覚えない為に好印象に映る(私の思う宇宙というのは『私』対『宇宙』、でしかないので、私自身何処にも所属欲求が無い事が、かえって人に受け入れられる(あくまで変人としてだが)のかもしれない)

ゴミ拾いと花壇は個人的には同一の物事として行っている。花壇がいくら綺麗でも、その周りのゴミを無視していたらそれはむしろ『醜い』のである。

当初家の庭に凝り出した時に同様のことを考えた…家の庭だけが綺麗で花爛漫でも、数メートル先に投げ捨てられたゴミを無視していたら、それはむしろその家の住人の度量の狭さみたいなものが露呈するだけだろう。ゴミ拾いをやり出したのも数年前からだ、自分の敷地というものを持ってから物凄く、そこに違和感と、満足感が増せば増すほどに、自分の身一つで触れることのできる外界と内側の境界線を無くしたいと切望するようになった。

美の視点から言えば、綺麗なものと、誰かの抱えた闇(あるいは人類の闇としてのポイ捨て行為)というものは常に釣り合わねばならない…と私は考える。

コロナについて思うのは、ただ単に嫌悪感じゃなくて、まさにこれが人間の作り出した幻影なのだという事だ。こんなに死亡者(原因不明)や自殺者が増えているのにこんなことを言うのは憚られるが、それでもこの幻影故に私は明らかに鍛えなおされている…大多数の流れに沿わなくても全然大丈夫だったんだという発見があるし、その『全然大丈夫』というのが自己完結の自分ひとりの話ではなくて、本当に実際に自分と接する人に対しても発動することを知った。

人生…もっと早くから『全然大丈夫だった』と気付いていればよかった。

そんな後悔もあって、幸福を気付かせてくれた花壇制作には入れ込んでいる。冒頭の言葉に訂正を入れるならば『私、植物や地域や自然を含めて、あなたたちを愛しているの、だから出来る範囲ならなんだってしたいの』と言ったところか。お金の一番の使い道はやはり共感、共鳴の地点の追求にある…これは実に幸せな浪費である。それ以外の浪費は正直、ただの浪費かもしれない。だから決して、博打につぎ込んでいるわけではない…!!と強がっているあたりが、やはりやや少し泥沼型であることは否めない…。