【聖書朗読の読み替えについて】イスラエルとヤマト

聖書を朗読していて違和感を覚えるのが【イスラエル】という言葉。これは地名なのだが、ただの地名…カナン、ユダ、アッスリヤ、エジプト、こういった地名とは明らかに意味するところが異なっている。厳密にいえばカナンなどは乳と蜜の流れる【約束の地】とも翻訳出来るのだが、でもイスラエルという地名の『地名に内包されている民族概念』の膨大さに比べれば大したことは無い感じがする。

ユダヤ教徒の間でも、イスラエルという地名を一つの強烈な神からの概念として受け止めている人々もいるらしく、彼らは現在の、三次元上での…アメリカ(とイギリス)の作ったイスラエル国を認めていない。

その気持ちはすごくよくわかる。

そんな遠くの民族に何で共感するの?と疑問に思われる方もおられるかもしれないが…聖書というものは個人の内側で読む書物である、と私は言いたいのだ。神がおられる地、究極的な地としてのイスラエルが『現在のアメリカ(イギリス)の傀儡であるイスラエル国家であるわけがない』のだ。

それは『大和』という概念とほとんど同じだ。『ヤマト』と聴いたときに自分が思い浮かべるのは古来からのヤマト民族としての一種の『神域』を内包したヤマト国、邪馬台国である。(歴史上それが正しいとか正しくないとかはどうでもいい、これは個人の内側の真実に根付いているものであり、何人もこれを侵すことは出来ない。勿論私も誰かの思い浮かべるヤマト概念に横やりを入れることは出来ない。)

昨今、ヤマトと軽々しく名乗る団体や、新選組などを名乗る政治団体が居て…それそのものがどうのこうのではなくて、それを名乗るという事自体に対して甚だ違和感を覚えている。

今現在、ヤマトというものを樹立させることは不可能だ。これから未来永劫、実は不可能である。

そしてそれとほとんど同義に、イスラエルと特定地域に唐突に名付けることも、実は不可能なのである。

え?でも神が約束されたイスラエルっていうのは聖書に書かれているのに!アメリカの手を借りたとはいえ実現したのに!とか、そんな意見もあるかもしれない。もしそう思われるのであればそれはそれで各々、それを信じていればよいと心底思う。

すべて逆説的になってしまうが…人間如きに実現不可能であるから我々は『神を待ち望む』のだ。

イスラエルもヤマトも実現不可能で、何処にも存在出来ない。

ああ、だからこそ待ち望むのか…!!と私はすごく納得している。

そんなわけで、聖書朗読についてはイスラエル→『神の王国』、エルサレム→『平和の町』とさせていただく。このほうが内的真実に近いからだ。

内的真実というものが社会的伝統と反する場合どうしたらいいのか?勿論、団体に所属するキリスト教徒の方である場合はその団体の指導に従った方がいいような気もするが…私はまさにこの点に於いて、内的真実を求めるという事に重点を置いているので団体に属するという事は多分一生しないだろうと思う。特にカトリックなどでは伝統を重んじるため、個人的な聖書解読はタブーだというような話も聞いたが、それでもこれは宗教的書物なわけであるし、聖書を読むにあたっての注意点自体が聖書には書かれていない。

つまり、誰がどんな内的意図で読んでも良い、とされている書物が、聖書なのである。

こういうわけで読み替えさせていただく次第である。