言霊というか、悪霊退散というか

言葉にして面と向かって自分の気持ち(主観)を相手に伝える…という行為を人生で避けてきた、思えば子供時代はずっと口を噤んでいたと最近改めて気づかされた。

というのも先日、ひょんなことから、言葉にして相手に『怒りになる寸前の疑問』を意を決して投げかけた所、意外な事に互いの誤解が解けたという出来事があったのだ。

喧嘩したっていい、という覚悟で挑むと案外楽になる。

これ、不思議なんですが、きちんと自分の感情(主観)を言葉に(訳)して肉声として発言するとき、何かとても重要な事をしている感じがするのです。

言霊というか、悪霊退散というか。

何故なら私たちは、何はともあれ肉体を纏って生まれている、その肉体が主観的に嫌だと(あるいは良い)判断したことに於いて、それを言う権利くらいは誰にでもあるのだ。

そして言わなければ半永久的に誤解が解けることは無い、分かり合えることもない、怒りも収まらない、疑問も消えない。しかも…肉声であればあるほど誤解って溶けやすいのだと発見した。

怒りはいけない、と巷では言う。暴力はいけない、と巷では言う。でも怒りや暴力感情を(丁寧な)言葉に翻訳して自らの肉声で発言し、自分の主観の始末をつけてやると、鬱憤という名の悪霊はたちまちに雲散霧消する。

※右の頬を打たれたら左の頬も向けよ…という話はあくまで直接な暴力に関する問答であって、いきなり殴るよりも、先ずはその怒り、そしてそれに先んじて生じる相手への疑問を言葉にすべきだ、と解釈している。

朗読という行為に何故惹かれたのか自分でも疑問だったが…ようやくその理由を見つけたような感じだ。

※イザヤ書は現在57章まで意訳を進めています。