知り合いが、『ジョギング中に暑くなってきたら上着を公園の木に引っ掛けておく』という話をしていた。
しかも『ひっかけておいた上着が、中国人に持っていかれ』…
さらに『普通に声をかけて、和やかに取り返した』らしい、それを『とても面白い体験だった』と言っていた。
私は初めのうち意味が解らなかった。
しかし後に察した…つまり彼は不確定要素を愛しているのだ…いや~漢だねえ!!見直しました。(話が逸れるが、女という生き物が大抵、ちょっと不真面目なタイプの男に惹かれるのってこの種の心理だよなあ。)
つまり彼が、不確定要素によって左右される只中で、いかに平常心で居られるかを試しているのだと私は理解したのですよ。
昨今、おそらくは意図的な社会不安が引き起こされていると思われる。
自分は無力だと思うその時に、どちら側が正しいか等ではなく、不安というものは詰まるところ不確実性そのものなのだということに気が付きたい。
そして意固地にならず、むしろ自分で神のサイコロを振ってみたい。
誰かの引き起こした波に加担するのではなく、自分自身のインスピレーションで、新たな波を引き起こしてみたい。
ゴミ拾いも元々はそういう意味合いでやっていた…というのも、どんなゴミが落ちているのかは不確定で、しかし感情を切り離して冷静に作業できれば、それはこの地域一帯の波を私自身の手で凪にしたのような…独特の満足感(征服感?)を得るためにやっていた。
愚直な意味合いでこれを実行するならば、創作行為に置き換えてもよいが…
そもそも、死ぬ確率もあるという不確定要素の中で生きているのが…生きる事であって…
不安というのは、確定要素を愛しすぎている故に引き起こされる一種の幻想に過ぎないのだ。
ということで、漠然とした不安感が拭えないという方は、ジョギングがてら、上着を公園の木の枝に引っ掛けて近所を一周するのも一興である。
当たり前だが誰かに取られる可能性もある、私のようなゴミ拾いマニアに捨てられる可能性もある。
でもそんなところに出くわしたとき…いかに冷静に対処できるかがカギだ。
反射的に怒ってゲーム盤をひっくり返すのは、カジノでは御法度。
諦めるのも御法度。
負けが込んだように見えても冷静に、自分の行為を実行したとき、きっと宇宙の摂理を愛せるようになるはず…。
不確定要素を愛せるようになったら…??
ひょっとして、それがいわゆる、『悟り』なのかもしれない。
ちなみに彼本人は、こんな蘊蓄を述べたわけではなく、ただにこやかにこの解釈を聴いていただけであった…。