カザフスタン行きを免れた話その2

手術で低血糖発作を起こしたが、低血糖症状で、呂律の回らなさ、悪寒、大量の汗、震え(痙攣)、せん妄まで行くと結構危ないらしい。その先は血糖値+血圧低下して意識混濁を起こし、死に至る事もあるらしい…今こうして【自分の身体】に意識の焦点が合っているので素直に、麻酔処置で死ぬところだったんだなと解るので怖い気もするし、せっかく新しいサイトを立ち上げたとたんに死ぬとか冗談じゃない、朗読も絵も色々やりたいのに!と悔やむ気も起こるが、いざ混濁状態やせん妄に陥ると…摩訶不思議。

そんな小さなことどうでもよくなるのだ。別に自分個人というこの意識が大きな意識に合一されるだけであり、地球と思しき空間に広がる広大な意識の中ではたった一滴に過ぎないAyaOgataという人物の死というものは、哀しいとか悲しくない以前に本当に些末な事に過ぎない…一昨日は本当にそんな感じがした。

だから個人の死についてはそこまで重要視しなくてもいいように思えた。生を軽んじるという意味ではなくて死ぬことを怖がり過ぎたり悲劇にし過ぎる必要もないし奉り続ける必要もないということ。個人というものは私が朗読で沢山の登場人物を演じるその一つ一つのキャラクターに過ぎない。一つのキャラクターの出番が無くなったからといってそこまで悲しいだろうか?それに、一度演じた役柄というものは『私』の中にちきんと『内在』している。今まで演じた酔っ払いも聖女も悪者も義賊もみんな私の中に既に居るし在るので、死が全ての個人の消滅や分散だとも思えないし、また、説明しにくいのだが時間というものも…例えば今私はこうして文章を書いているので表面上は演じてきた役柄は息をひそめているように思えるがその実同じように鼓動して同じように躍動しているように感じる。よって、現世に於いて来世だとか過去世と呼ばれるものは個人を超えた視点では同時進行しているのではないか?そんな風に思えてならない。

あと麻酔時に見えるせん妄も、よくよく考えると普段の日常の意識下、絵を描く時に現れる領域にわりと普通に見えているものに過ぎなかった。不可思議なものを見たというよりも、異国の風景なんかは案外誰にでも無意識的に見えていると思う。創作をする人はおそらくこの表層下の意識に視点を絞る癖がついており、だから日常から考えると不可思議なものを描いたり書いたりするだけのことだと思う。

死にかけた私は今見ている風景を実に不思議だと感じている。緑がものすごく鮮やかだ。昔から私は緑に感動する質であったが件のカザフスタンと比べると信じられないほど生命活動が豊かな地域に今居るのだと感動した。これは守らねばと思い、私の日常が始まってゆく。リハビリも兼ねていつものように早朝にゴミ拾いをする。無論それを奇異な目で見る人もあるし、挨拶してくれる人も居る。おそらくこの割合は件のせん妄で見たカザフスタンでも同じだろう。カザフスタンでもゴミ拾いをする人は少ないから珍しいだろうし杖をついていたら猶更だ。インドでもそうだろうしネパールでも、ボツワナでも、メキシコでも、ペルーでも、ロシアでもそうだろう。何処に生まれてどんな人種だろうが私が私である限り私はある程度は孤独だと思う。何処だって同じなのだ、誰だって同じなのだ、私でなくったってそうなのだ…。

しかしこの孤独の行をある程度続けてゆくと、同じように一人で何かを続けてきた人に出会える確率が高くなるという仕組みが実際、在る。この仕組みすら全世界共通なのだと思う。私がイスラエル人でもそうだしモロッコ人でもそうだろうしアンデス山脈の高地に住んで居る人間でも、導かれることをやるしかないのだ。誰だってそうなのだ。

誰だって何らかの導きのある事をやりたいし、相反する孤独を覚え、隣家の犬はうるさく感じるし、何もかもが億劫になったりする。何となくだが死にかけた甲斐もあって自分というものをとても客観視出来た気がしないでもない。相変わらず五月蠅い犬が吠えるが隣人に挨拶をする、それだけでいいのだ、みんな同じなのだとわかった私は…確かに、生まれ変わったのかもしれない。