散文詩【あまりにも素晴らしい物語】

素晴らしい物語の終わりに一人の人間が絞り出すように言った。『生きることの無意味さを受け入れたい』その人間が物語の登場人物なのかそれとも鑑賞者のうちの一人なのかすらも曖昧な感覚世界に於いてこの言葉は呼応し、この物語に纏わるありとあらゆる人々の根源的虚無感を揺さぶった。物語の筋道はともかくとして終わりに近づくと展開は縮尺され、劇中ではあんなに瞬間瞬間に向き合って闘っていたはずの彼らが終盤では、まるで駒の一つに過ぎないかのような小さな幸福を表現し、尺の都合もあってか最後の数分で数十年の経過を演じるという手法を行っていた。監督の意図はどうあれこれが観客の心を予想外に動揺させる事態となった。この種の幸福の表現に於いて留意すべきなのは『確かに個々人が実在し、物語を展開し、結果的に物語序盤と終盤では環境や人間関係に何らかの変化が生じている』事が必要不可欠であるということである。生きた証や足跡の表現はこの当時からお約束であった。にも関わらず情景そのものだけに着眼すると、ある意味ではこの物語や登場人物たちの生きた軌跡というものが無意味と思えるほどに序幕と終幕とが酷似してしまっていたのだった…無論このお約束破りを監督に指摘出来る者は居なかった。物語自体が素晴らしいがために観客たちの多くは自らの生の『無意味さを』受け入れたいと切願する事態に至った…さらに質の悪い事に『世界観が変わる』などとこの物語を全く鑑賞していない広告屋がのべつ幕なしに触れ回ったために評判を呼び、信じられないほど多くの人がこの物語を鑑賞する羽目になった。その年から唐突に自殺率が上がった事と、最早社会現象とも呼べるほどの売り上げ上の成功を収めたこの物語との間に因果関係を見出したのはごく一部の偏屈者たちだけであった。それでも彼ら自身は『生きることほど無意味なことはない』と思って過ごしており、そして厭世感と対峙しつつ『物語というものは人生同様人間の妄想に過ぎない』と自分を宥めながら腐って生きていたので、素晴らしい物語を鑑賞しても彼ら自身に変化が起こらず虚無感に苛まれることは無かった。生きるという事はある程度の単純さと無視、つまりは愚鈍能力が最も必要であり、細かい物事に感じ入り過ぎるとかえって精神の健康を著しく損なう恐れがある上、抑うつ気味になるので経済活動にも悪影響が及ぶ、後に心理学者がこのように物語鑑賞と精神衛生の仕組みを解き明かしたため、あまりにも素晴らしい物語及びあまりにも微細な幸福表現は…人間の生命維持の為に…その後一切公演中止となったのだった。