散文詩【赤瑪瑙の金魚の泳ぐ庭】

僕の小さな箱庭では赤瑪瑙の紅色金魚が庭園水晶の水面を泳いでいる。水晶の峰々が空高くそびえ、遥か後方女神の渓谷には乳色の玉が溢れんばかり。ああ愛しや石世界。原石の世界及びそこを舞泳ぐ彫刻石たちよ…特に赤と色のまだら瑪瑙が僕の好物なのだがあまりツボにはまるものが無いばかりか昨今のパワーストーン概念で石は乱獲され山々は疲弊しているのではなかろうか?僕は一変して罪悪感に責め苛まれる。さっきまでは瑪瑙彫刻が何故こんなにも流行らないのか疑問で疑問で仕方が無かったのに今度はもぎ取られた水晶に心底同情している。お前はまだ山に居たかったんじゃないのか?聖母の聖堂を意味する子宮じみたアメシストジオード結晶は静かに冷気を放ってこちらを見ている。これが木のなれの果てに溶岩が注がれてかまくら状態の空洞が出来、そこに太古の栄養素が結晶して晶洞が群生し…金属と男たちの腕力により穿たれて店頭に並ぶ。

石は生きている。水晶と他の結晶が結合している場合それを共生と言う。

鉱物店の店主は髭面の頑固爺ではじめのうちは僕の事はただのクソガキだと思っていたらしい。それから鉱物の話を聞いて、僕が同類だとわかると僕らが共生状態にあるって彼は理解し寛大になってくれた。その店だけは時間経過が曖昧でいつまで経っても僕はあの時の小学生のままなんだ。華僑の生まれ変わりが多いらしくガーデンクオーツはすっかり金運石になってしまった。あのなあだったらブラジル人やミャンマー人は金持ちだらけのはずだぞ?庭園水晶の美点は内包物がある視点から見ると汚物に見えることだ。汚れているという感覚が石に対して働くので僕はそれを愛でた。汚れているという事は即ち人工物ではなく自然物で、土に近いと感じたからだ。それでも確かに赤瑪瑙や紅色の縞瑪瑙と庭園水晶はアジアの美を感じさせる。カーネリアンではなく瑪瑙なんだ。生き物を宿しているのは赤瑪瑙なんだ。幸いにも瑪瑙の値段は高騰していないが瑪瑙は彫刻の方が美しい。古代ローマ人も瑪瑙のカメオを作ったんだ好きな人の顔をそのまま持ち歩けるように…これを言ったら原石ばかりごろごろと置いている鉱物屋の亭主は怪訝な顔をした。そんなちゃちなモンをお前は愛でているのか女々しいやつめと言いたげにこちらを苦々しく見ていたっけ。僕は慌てて、カメオを集める趣味は無いよと言った。石に意味を持たせるか否かをはじめ、近いからこそ分かり合えない思想が石の上を行き交う。僕が小さなジオラマを悠々と泳いでいる事を知っているのは物言わぬ石だけだ。地球から離れない限り人間は石に魅せられ続けるのだろう。大地そのものを密かに愛で続けるのだ。

水晶の峰々が高くそびえ、遥か後方には黒い山脈が雄々しく続く、これって神様の視点なのだと僕は独り言を呟いて微笑む。その下方には緑の町が広がり、池の中を赤瑪瑙の金魚が身を発光させながら泳いでいる…ガーデンクオーツの庭。