ショートショート【Maybe Angels】

褐色の肌をした老婆は道路へと一歩また一歩と踏み出していた、売春宿へと続く干からびた道を老婆はよたよたと歩き、一つ一つ、投げ捨てられたゴミを丁寧に拾っては袋へと入れていた、その袋からは拾ったゴミがぽろぽろとこぼれ落ち、再び路上へ転がっていった。
緑色のバスが来るまではまだ時間があった、誰にも見えない影は老婆をじっと見守っていた。
老婆は頼りない足取りで遂に道路へと降りた、たった一段のアスファルトの段差すら彼女には堪えるらしかった。
その真後ろを帰宅途中の売春婦が通り過ぎ、振り返って言った、真昼の日差しが眩しいらしく手をかざしている。
「お婆ちゃん、危ないよ、轢かれるよ」
老婆は売春婦に言った、売春婦の履く安物の長いブーツの踵が、アスファルトに擦れて枝の折れるような音が響いていた。

「大丈夫、精霊は妹を守るけど影から私の事も守るから、妹は修道女なのよペンテコステ派のね」
老婆は実際には地面を見て尚も道路に居た、老婆の真横を何台ものトラックが通り過ぎ、老婆の髪の毛を風が引っ張っていた。
「あのいかれた宗派に修道女は居ないんじゃない?」
売春婦はそう言ったが、老婆が道路から歩道に戻る気がないのを感じるとくるりと背を向けて歩き出した。
「昨晩は稼げたみたいだね、気配りが出来るって事は余裕の表れだよ、あんたも修道女だ」
老婆は一人で頷き、静かに笑った、影はひたひたと道路を横切り、老婆の真後ろまで来ていた。

「きっと天使は居る、隣の馬鹿犬や地球の裏側の誰かが、ほんのちょっとでも微笑むような事こそが救いなんだよ、私は救いを実行したいんだよ」
影は老婆の独り言をはじめのうち黙って聴いていた、それは老婆の背中から漏れる内面の呟きだった。
老婆がゴミ拾いに熱中し出したのを見計らい、影はそっと声をかけた、影には善悪もないのだ、影の声で老婆が転倒し、トラックに轢かれても影は囁くのを止めない、それが影の性質だった。
「天使は居ませんよ、あなたの人生にも先の売春婦の人生にも何の意味もありません、元売春婦さん、あなたは無意味なことをしています」

影の声に老婆は顔を上げた、薄くなった眉にそれでも眉墨が引かれ、老婆の顔は歪んだ作り物のように見えた、影には実体が無かったが老婆にはそれが影であると直感でわかった。
「あたしも稼ぎの良かった日には誰かに声をかけたよ、本当にちょっとした事を言うだけなんだ、微笑み合う、ただそれだけが人生の意味だよ」
影は静かに佇んでいた、バスはまだ来ない、ここには木が少なく道路や家屋、ゴミといった人工物ばかりだった、ゴミとはつまり、人工物のことだった。
「あんたは人の頭の中に声を谺させてご満悦なんだろうけど」
老婆の冷静な言葉に影は黙っていた。
「この辺りじゃあんたは悪魔って呼ばれてるね、ブードゥーの魔術師共があんたを使役してるって、でもね」
老婆は大きく息を吸って影に吹き付けるように言った、影は尚も黙っていた。
「それこそ無意味ってもんだよ、呪い合うことほど無益なことはないよ、だからこうしてその後始末をしてるってわけさ、救いを実行することこそ意味のあることだよ」

「あんたは」
老婆は影を見据えて言った、影の居る空間は肉眼では何一つ変化しているようには見えなかった、太陽は中天から照りつけ、空気は乾燥していた。
「何なのだろうね、死霊か?生き霊か?それとも悪魔としか言いようのないもんなのかい?でもあんたは…消えて、こっちからは見えない形の光になるときがある、そうだろ?」
影は揺らぎながら老婆の問いかけに思案し、バス停を見ながら答えた。
「僕らは地下の存在ですよ、地表の奥深く、橄欖石の埋め尽くす光の世界よりもさらに奥深くから湧き出るただの…力ですよ」
「何故街中へ行きたがる?」
「地表の、特に乗り物や街中には言葉が溢れているからです、それ以外に理由なんて無いんです、そして言葉の持つ力はだいぶ偏っています、だから言葉を少しずつほどいているのです」
影のその発言を聞いた途端に老婆は頭を押えた、老婆の思考の中に無意識的に浮かんでいた文字列のうち、はじめはほんの一カ所、そして数秒も経たないうちに数え切れない箇所に誤植が生じ、遂には行自体が何の意味も成さないアルファベットに書き換えられていた、老婆は思考の無意味化に耐えかねて呻き、叫んだ、辛うじて単語だけは言えた。

「悪魔!」

白昼のゴミだらけの街の、売春宿へと続くその道に老婆の苦痛に満ちた叫びが響き、数人が振り返ったが、その街に於いてそれは日常の範疇だった、薬でおかしくなっている人間が路上で叫んでいるようにしか見えなかったのだ、そしてこの街に於いてそれは日常茶飯事だった、影は言った。
「僕らはただ、ほどいているだけなのです」
老婆の頭の中は既に元の文字列、元の語彙、言葉自体が意味を持つ状態へと戻っていた、老婆は汗をかいていた、しかし震えていた。
「…完全に無意味…」
老婆は立っていられなくなり、歩道へと引き上げた、手に持っていたゴミ袋が風に舞い上げられ、老婆の善意ごと、意味ごと、白い鳩のように何処かへ飛び去っていくのが見えた。
意味を失った老婆はそれでも泣かなかった、悲しみすら湧き上がらなかったがそれでも尚天使を見る想いで上空のゴミ袋を見送り、静かに言った。

「街中で多く発生する病気だと、あんたは言われているね、ブードゥーの奴らからは悪魔、教会からも悪魔、そして医者共からは…病気だとあんたら影は言われている」
「ええ、ときほどいてゆく作業にはそのような側面が伴います、人間は全てに意味を見いだしたいのです、その力が集中し過ぎているんですよ…僕らは、あなた方が言うところの、自然と呼ばれる存在です」
「…自然…」
「自然を感じやすい人から順に、開放されてゆくのですよ、不自然さから、意味から」

老婆ははっとして影を見ようとしたが影はもうそこには居なかった。
通りの向こうに緑色の年代物のバスがノロノロとやってきて音を立てて止まった、数人が乗り込み、誰も降りてこなかった、影もバスに乗ったらしい。
「…それでも多分、天使は居る、きっと天使は居る」
老婆はそう言ったが少し戸惑ってもいた、自らの招く意味への意志こそが、地中深くから影を出現させる要因にもなり得るという個人的真実を知ってしまったからだった。
「…明日からどうしようねえ、ゴミを拾うべきか拾わずに居るべきかで悩むなんて馬鹿げてるよ、妹に言ったら悪魔払いされるだろうねえ」

通りにはゴミが散乱していた、売春婦の鳴らすすり減ったヒールの音、鳩の鳴き声、亭主を待つ女のすすり泣き、アル中男の嘔吐する声、売人が身につける金属のネックレスがたてる火花のような音、銃声、子供が車のガラスを割る音、この世は汚さで満ちている、一方でこれほどまで…純粋さに満ちている世界があるだろうかと老婆は思った。
何かをしてくれと手を伸ばしている世界、常に不完全な世界、常に不自然な世界、何もかもが欠けていて、だからこそ老婆は老婆の内なる声に従わねばならないような気がした、確かに意味など無いのだろうと老婆は観念した、天使は限りなく…居ないだろうと老婆は思った。

「それでもお互いの仕事を、やるしかないね」
老婆は深いため息をついたが、どこか微笑んでいる風に、軽い足取りで家へ帰ったのだった。