短編小説【森の神の系譜】

森林地帯というのは法律の外側めいた雰囲気を持っていると、自称「声聴き」は思っていた。東アジアの島国…この国のかなりの面積を森林という人外の世界が埋め尽くしているのだ。何故人がこのような自由を見ずに憲法に縛られて動き、自分の魂の滅するのを茫然と見つめていられるのかが彼には理解出来なかった。そういうわけで彼は人里を離れ、ちょうど県境になっている薄暗い山奥に身を置き、声聴き…要するに独自宗教の長として生計を立てていた。その間にも様々なことの始末を密かにつけ、何処かで自分が罰せられる機会を待っている風でもあった。

声聴き、というのは神の声を聴く人の意であって、イタコなどの類の心霊の声を聴くのでもなければ土着の神をその身に乗り移らせるといった芸当でもなかった。言うなれば唯一無二の神の声を聴き、それを人々に教えて回ったりする生業の事だ。はじめのうちは勿論ただの頭のおかしい人間だと彼も思われていたがそのうちに…そんな生活を続けてゆくうちに心身がその芸当に慣れていったのだろうが…本当に悩みを抱えてやってくる人間に対して的確な手助けをしたりするようになった。金がないという人間には彼は自身の持ち物を与え、表ざたにはしたくないが家庭に難儀している人を迎え入れたり、失せ物(それは物だったり者だったりした)探しを当てたり、なんとなく運勢を開きたいなどと言う人には傍目には支離滅裂の助言をしたり、聖書から有り体に引用した「汝の敵を愛せ」という言葉を連呼しているうちに、彼はいつしか周囲の人々…といっても山を迂回する国道を含めて周囲数十キロ四方という単位であるから、あくまで人から人へと語られる漠然とした噂話の上でに過ぎないがそれでも、「森の神様」と呼ばれ、彼に対して一種の親しみさえ覚える者も出るようになり、信者とさえ呼べる者さえ出現し出した。

さて、彼がそんな生活を続けていつしか数十年が過ぎ、文明は進んでいった。やがてネットの不確かな噂を求めてやってくる若者がぽつりぽつりと現れ始めた。それはまるで時代を超えてやってきた彼の跡継ぎ達のようでもあった。彼はそういった若者を特段温かくも無ければ突き放しもしなかったが、毎日の生活リズム…祈りからなる森の神の生活リズムを壊すようなことが無いようにと口酸っぱく新参者たちに諭していた。夜遅くまで騒ぐとか、目覚まし時計を鳴らしっぱなしにするとか、そういった些末な事さえしなければ…些細なことで怒る森の神も怒らなかった。

森の神は後継者たちに人生での回訓を言った。「国税調査に協力するな、貯金は現金でしろ、女を不用意に妊娠させるな」このうち3つ目は彼自身が最も辟易している災いのうちの一つで、彼がこの半生をかけて築き上げた声聴きとしての仕事のかなりの部分を、妊娠したままで家を逃げてきただのなんだのという女たちの面倒を見ることに費やす羽目になった憂い多き過去から得た教訓であった。これは彼自身には関わりのない事であったのだが、どうやらこの世で一番窮しているのは頭の弱い女たちらしく、彼女たちはのべつ幕無しに野良猫のように人知れず簡単に妊娠しては、頼れる者として体のいい森の神をその保養者に選んで山奥まで法を逃れてやって来ていた。彼自身は禁欲の誓いを立てているから彼女らに指一本触れていないのにすべてを背負わされる事さえもあった。これには森の神もさすがに我慢の限界を超えたらしく、それから数十年経ってからも至る所でこの三つの文言を触れて回っていた。1つめと2つめについて彼曰く、国、という単位には知らず知らずのうちに所属しているものであるが、けれどもそこから逃れる自由はあるはずだ、汝の敵を愛せ…しかし女を不用意に妊娠させるな、この国の産婦人科は何故アフターピルを無料で配布しないのだ、こんなことを折に触れ宣言し、人知れぬ理由から何処か自罰的な風でもあった。

後継者たちのうち大半はこの自称声聴きであるところの森の神の実生活…朝早く日の出前から起きて祈り、自前の畑を耕し、昼前に飯を食ってから秘密の岩穴へ行ってたまに射精する(無論、これを露見させた若者…岩穴へ密かについて行った若者は、森の神自身に見つかって酷い叱責を受けその日のうちに叩き出された)、そんな普通の人間たる彼の様子を見るにつけ意思を砕かれ山奥から一人また一人と去っていった。森の神は声聴きと称していた割には寡黙で、特段ありがたい教えが聴けるわけでもなく、教えと言えば先に述べた3つを繰り返すか、自殺目前といった体の人間に野生のタヌキの親子を見せたりしてその興味を自死から動物愛へと持ってゆくくらいのことしか出来なかったからだ。森の神の住む家は頑丈に出来た掘っ立て小屋といった風体で、冬季にそこに泊まった人間たちがまだ一人も凍死していないのがむしろ奇跡のようですらあった。そんな彼にも一つの弱点があった。それは金だった。生身の女とは触れ合わず男としての生理現象は妄想で済ませ、服はぼろきれになるまで着て、食べ物は畑の野菜と信者のような人間たちからの布施、それも普通の人間なら飢え死にするようなレベルでなんとかやっている自称声聞きの森の神は…どういうわけだかしこたま金を貯めていた。しかもそれを国に察知されるのを厭い、現金で床下に押し込んで隠しているのだった。

ある日二人の後継者の若者が森の神の掘っ立て小屋に留守番をしていた。当然の如く森の神は携帯など持っていなかったし、不意の来客で信者の元に赴いた無防備な状態だった。ネットでの一過性のブームが過ぎ去った後の森の神の生活は単なる隠遁者のそれに過ぎず、もう彼ら二人以外の後継者たちは立ち去った後だった。この二人のうち片方はひどく細身のどこか挙動のあやふやな若い…といっても既に30を過ぎていた男で、もう一方は二十代前半の面立ちの良い長髪の美丈夫であった。「ボクさんはどう思います?」ボク、と呼ばれた細身の男は目を瞬かせて辺りを見回した。「あのう…ボクってのは僕の事ですか」美丈夫は笑った。「名前なんて記号ですよ、ボクさんは僕って言ってるからボクさん、俺は髪長いからロン毛でも、髪結んでるからムスビでも何でもいいですよ、それで森の神さんのあの貯金、どう思います?」美丈夫はしきりに言った。「あれ、俺ら二人で盗っちゃいません?」ボクと言われた男は身を震わせて美丈夫を見やった。「ムスビさん、やめたほうがいいですよ」二人とも金にも生活にも窮していたのだった、都会に帰っても誰も彼らを待っていなかった、窮した二人の若者にとって金や破壊行為そのものは不可思議な魅力を放っているように感じられた。

それから夜半過ぎまで森の神は帰らなかった…あるいは永久に還らなかったと言うべきであろうか。ボクと、ムスビと呼ばれた美丈夫が床下を剥いで現金を掴みだし(それは予想の10倍ほどの金額だった)帰宅途中の森の神を針葉樹林の薄暗い木々の中で、半ば一種の譫妄状態で絞殺したのは彼らにとって悲劇であったのか喜劇であったのかは不明だ。生命独自の必然性に駆られて、神殺しをやらざるを得なかったというのが彼らなりの言い分だった。かくして彼らはこの言い分を抱えて生きることになった、神殺しの科を抱えて生きることと相成った。

ムスビと呼ばれた美丈夫は即日山を下った。ボクは残り、森の神の方々の信者に出向いて回り、森の神が昨日から帰らないと心配する演技をして巡り歩いた。我ながらこの大胆さには驚くとボクは思っていた。普段のボク…この男は平常時、自分の内側にはぽっかりと空洞が開いているようで、それを意識すると彼は途端に人前で呂律が回らなくなったり挙動不審に陥ったりするのだったが、今回はこの、森の神の不在を心配するという役目が彼に降りてきたために彼の振る舞いは都会に居たときの目の当てられないようなそれとは打って変わって、貧弱さがかえって功を奏し、傍目にもいかにも純朴な好青年そのものに映ったのだった。森の神の死体が生き返らないようにと何の躊躇も無く首を鋸で切り落としたのは正真正銘この男の方であった。美丈夫のムスビはそれを見て何かとてつもなく気味が悪くなり、自分から誘ったこの殺人計画に幕を下ろすべく早々に山を下りたのだった。死体は畑のそばに埋めた。幸いにも畑は森の神がしょっちゅう耕していたがために、腐葉土作りや土の入れ替えやら何やらで周囲一帯が穴ぼこだらけであったため、なんの違和感も無く森の神は土に還ったのだった。

ボクはいつしか森の神の二代目として務まっていた、神殺しのせいか彼自身の内部にかつての森の神が宿ったような様子すら伺えた。挙動不審の人見知りは森の神が彼の保持する空洞にすっぽりと収まり、彼を二代目…森の神様と呼ばれるに至らしめたのだ。彼は殺人を悔やまなかった。それどころか子供時代から青年期に至るまで散々に苦しめられたこの自分の空洞が、今や森の神の居所として役立っているとすら感じて幸福でさえあった。彼はまるで妊娠中の女のように一人でありながら森の神と二人だった。それが彼を強くさせ、生き地獄であった都会での思い出をだんだんに薄めてゆき、声聴きとしての務めも、信者たちへの態度もそれらしいものに変化していった。布施ももらうようになった。彼は世界で彼にしか理解できない神としての責務を感じながらをれを果たすことに専念して粛々と過ごした。それはこのボクという男にとっては人生で一番輝いていた日々であった…季節は移り変わり数年が過ぎたころ不意の来客があった、表に立っていたのはムスビと数人の女たちだった。

「困っちゃってさ、ああ君たちに紹介するよ、彼がボクさんだよ」ムスビは有無を言わさずに掘っ立て小屋に入ってきた。少し歳を食っていたが相変わらずの美丈夫で腹も出ておらず輝く黒髪そのままの長髪だった。ムスビは白い歯の並ぶ笑顔でボクに会釈してさらに女たちに言った。「困ったらこの人を頼ればいいんだよ」女たちは3人居てそれぞれに頭を下げた。ど同時に何とも言えない若い女特有の薄い汗と混ざった整髪料と思しき香料がぷんと鼻をついた。こんな山奥には似つかわしくない女の匂いが小屋に一気に充満した。ボクは反射的に顔をしかめてムスビを見やった。ムスビは臆することなく見つめ返してきた。その瞳には若干の威圧が込められている様子だった、俺たちは共犯だ、神殺しをばらすぞ、お前はまた空洞に戻って都会の刑務所で子供時代からずっとそうだったようにいじめられて過ごす羽目になるぞ…そんな脅しが込められているかのようだった。無論ボクとムスビとは森の神を介して知り合った仲に過ぎない。しかしムスビには人のすべてを見通し、尚且つそれとなく指図するような性質が生まれながらに備わっているようだった。ボクは身じろぎもせず突っ立っていたがムスビはずんずんと台所まで進んでまるで当然といった風で向き直った。「なあ、俺ら滅茶苦茶腹減ってるんだ、何か食わせてくれよ」

ムスビの連れてきた女の内2人は懐妊していた。そんな状態でこの山奥まで来られても困るとボクは言い返したが女たちがそれを制した。自分たちは…法律上の夫が居るとか家賃を滞納していて戻れないとか親元に居れないとかそんな様々の理由からこのムスビさんについてきたのだ、帰る場所などはなから無いのだ、この二人が宿しているのもムスビさんの子なのだ、自分たちは彼を独自に愛していて、はじめのうちは嫉妬もしていたが彼に引き合わされて仲間になったのだ…そんな話を女たち本人から直接聞かされたボクは黙るしかなかった。彼は自身が女性経験の無いのが災いして、その手の事情にどう口を挟んでいいのか皆目見当もつかなかったのだ。しかし今までは布施やかつての森の神の埋蔵金でなんとかなっていた一人暮らしの生活、ともすれば一生やっていける生活も、男女5人…しかもこのうち二人にはもうすぐ赤ん坊が生まれる…これを支えるにはどう考えても相当の無理が生じ、いまやボクの内部で生ける神となった森の神の貯めた金を切り崩しても、それが今尚莫大な金であるのは確かだが、この調子で使っていけば丸3年を待たずして全くの無一文に陥るのは火を見るより明らかであった。

夜は毎晩ムスビと女の内の一人が何の気兼ねも無く日替わりで交わっていた。部屋という部屋すらないため嬌声のすべてがあけすけに筒抜けであった。これに一番堪えていたのは言うまでもなくボクであった。一番恥辱を感じていたのもこのボクという男であった。しかし女…それも妊婦を夜の山に追い出して外でセックスしてこいなどとは言えようはずもなく、ボクは黙ってこれに耐えるほかなかった。第一に困るのは自身の射精でもあったので、ボクは仕方なしにしばし、かつての森の神がそういった所用に使っていた秘密の岩穴へ昼食の後にいそいそと歩いていくのだった。実際の男女の和合も度を越えれば嫌悪の対象になる…にもかかわらず射精欲求の起こる自分をボクは心底恥じた。岩穴はそれ自身が女性器でもあるかのようなつくりになっており、その内部に入ると自然と勃起するのをボクは感じていたが、同時にそれに対し、日常の鬱憤も手伝ってか怒りすらも覚えるようになっていた。ある日ムスビがニヤニヤしながら岩穴の前に立っていた。ボクは身をすくめた。「よお、ボクさんにぴったりの相手が来るかもしれない、そしたら代わりばんこで小屋を使おうよ、それとも、木材をくれれば俺、小屋くらいは自力で作れるんだけど」

目の前に実際に建てられた大きな小屋…ログハウスと言ったほうが的確であった。これを見ながらボクはムスビを訝しんだ。これほどまでに手に職のある若いムスビが何故人里を離れてこんな山奥に来たのかをボクは一言も問わなかった。思えば奇妙な事であった。ボクのような中年で、元々挙動不審の頭の悪い男であれば都会に居たって良い事は何もないし下手をすれば仕事にもすぐあぶれる。しかしムスビは30近いとはいえ美丈夫で頑健、若者そのもの、柔和な雰囲気で木材があれば小屋が作れるほどには現場の手仕事を知っているらしかった…そんな彼がこの山奥に来たのは、何も女を妊娠させて廻っているからという理由だけではあるまいとボクは薄々察していた。思えばムスビから軽々しく、金を盗ろう、殺人をしようと持ち掛けられたのを彼は思い出していた。と同時にもう一つの考えが頭に浮かんだ。それはとても生理的に受け付け難い思想ですらあった。おぞましいものを敢えて抱きしめるとかそういう行為に近かった。ボクの内部に居る森の神がボクに何かを訴えかけていた…この世で一番難しい難題を彼に投げかけているのだった。『汝の敵を愛せ』ボクがこの森林地帯の方々をめぐって信者のツテで集めた木材や大工道具を綺麗に使いこなすムスビの頑丈な背中を見て、ボクは身震いした。こいつはきっと何人もの人間を木材みたいに殺している…!!それは確信に近いもので、漠然とした不安とか悪夢といったうすぼんやりした空気ではなく、確かに血が染み込んでいるとはっきりとわかる何かがムスビという男にはあった。その気配は覇気と言い換えるにはあまりにも生々しい殺気であった。わびしい掘っ立て小屋の少し奥に、大きな小屋が建ち、血の匂いを暗に発する男の気に当てられたと見える女たちも、いそいそとそこへ引き上げていった。

ボクは日の出前から起きだして短い祈りをあげると、いつものように木々の合間に作り上げた場所へと…個人の割には広いその畑に繰り出した。しかしそこにはロープで何らかの境界が設けられており、ボクは戸惑った。ここは体内に生ける神を宿してからずっと幾年もの間ボクが管理している畑であり、灰を撒いて土の酸度を中和させたり、今年使った土を畑の端の大穴に盛ってたまに天地返しをして土を生き返らせたり、現在の畑に活力を与えるために腐葉土を混ぜたり、その腐葉土を作るために落ち葉を大量に寝かせておいたり…と、まあ年がら年中土いじりをして循環が滞らないようにと散々工夫してきたのだった。作物は単に土に植えればいいというわけではなかった。はじめの年はそれでよくても翌年からは土が変質するのでそうもいかなくなる。よってどの作物を畑のどの区域でどのサイクルで作るかといった数年単位で組まれた手順を理解していなければ、畑で作った作物を定期的に食するという事は実質不可能に近いのをボクはよく理解していた。ロープで境界を設けようとも畑は…このすべての畑、腐葉土を含めたすべての土が大きな一個の作物のようなものであるため、区分などほとんど意味を成さないということを彼は痛いほど知っていた。元来の性質が虚弱で空洞であるために怒ることは滅多にない男である彼が、わなわなと震える手を握りしめて大きなログハウスに突進して行ったのは言うまでもなかった。「畑で作物を作るのは絵空事じゃないんだぞ!畑っていうのは全部が全部、土で繋がってるんだ!」朝焼けに赤く染まったボクは眠気眼のムスビに掴みかかった。腹のつき出た女のうちの一人が彼に寄ってきて口を挟んだ。「あの境界線を引いたのは私です、私の実家は畑をやってるので勝手は…すみませんが素人のあなたよりも知っています、土もこちらで買おうと思っていますので、畑を二分させてくださいませんか」

本当に言いたかったのは自分がその畑を心底愛していたということだったと…ボクという男は放心しながら思った。生産性とかそんなことじゃなくてあの土を全体的に愛しているんだ!触れていたいんだと言えばよかったと彼は思い、夢想の中で何度も何度もその女のボテ腹を蹴り飛ばし、顔をぐしゃぐしゃになるまで殴り続け、その死体を木に吊るして赤ん坊を引きずり下ろして串刺しにするところまでもを想像した。夢想の中で彼はムスビをはじめとする彼ら4人を数えきれないほど殺していた。畑は実際には二分どころか全体の8割を彼ら4人が牛耳るに至っていた。お前らは別に何処でだってやってゆけるじゃないか!?自分にはここしかないのに!!ボクは嗚咽した。その嗚咽は隠しようもなく、すぐそばに居るムスビたちの耳にも届いてはいた。だが涙する彼のそばで彼ら4人は件の女の指示に従って田を何事も無く楽しく耕していた。時折虫に驚く別の女たちが奇声を発し、あとの二人がそれをなだめるのがボクには嫌味らしく響いた。彼らは化学肥料とやはり何らかの調合が成された農作物用の土を大量購入し、車で何往復もしてここへ運んできていた。いつだったか慈しんだミミズももう土に宿らなくなっていた。土は変容し、それをボクは痛いほど感じていた。ボクはこの一件によって完全に彼らに心を閉ざしていた。しかし相変わらず生ける神は彼にこうささやくのだった。『汝の敵を愛せよ』彼は確かに声聴きの二代目であった。この点で彼は森の神そのものであった。心理的に相反するものがぶつかり合う中で、彼ら4人を殺す夢想と、おぞましい勢いで害虫の如き繁殖をしようとしている彼らを一心に抱きしめる幻想とがボクという男を苦しめ、しばし畑の片隅に彼をうずくまらせるのだった。そんなときにムスビは座り込む彼を指さして女たちに「あいつ童貞だからあんま刺激すんなよ」とふざけた様子で言い、その一瞬後に女たちの押し殺した笑い声と、無遠慮な嬌声とがこだまするのであった。

果たして神殺しの末に奪い取った理想郷は第三の神に取って代わられていた。憔悴したボクが最早自慰をするわけでもなく、単なる避難場所として岩穴の奥に座っているとムスビがやってきた。不意にボクは発言した…その目は青白い顔に大きく見開かれ、一目で常軌を逸していると分かる様相であった。「僕はね、ムスビ、君を何度も何度も殺しているんだ、君の連れてきた臭いやかましい女たちも何度も何度もぶっ殺してるよ、ねえ、これって嫉妬なのかな?僕は嫉妬しているのかな?ムスビ…今とても素直に君と話がしたいって思っていたよ、君と僕は本来、何かに惹かれて森の神のところへやってきたきたじゃないか、僕らは本当は仲良くやってゆけるんじゃないかな?それともやはり、僕はいつかは君を殺さなくちゃいけないのかな…あるいは僕が自殺でもしなけりゃいけないのかな、都会にいた時いつも思ってたよいつか自殺しなきゃならないのかなってね、僕はこれでも…いつだって…みんなを愛したいって思っているんだよ」その言葉を聞いたムスビは立ち止まり、ぎょっとした様子で相手を見つめた。ムスビはしばらくの間黙っていた。ボクは心の奥底で彼が…今の自分同様に心を開いてくれるのをどこか期待して待っていた、が、何も起こらなかった。ムスビは自分の過去の一切合切を隠すかのように感情そのものを隠していた。それがこのムスビという男なりの、怯えを隠すための虚勢であることは彼本人にさえもばれていなかったのだ。ムスビはなだめるように言った。「なあ、ボクさん、俺はあんたを傷つけたいわけじゃない、なんかしたんなら謝るよ、それもこれもさ、ボクさんが一人でいるからいけないんでしょ、ね?いやあ実はさ、まだちょっと他にも女が居てさあ…物は相談なんだけど、その女たちをあんたにやるよ、新しい女たちをあんたにやるからさ!」ボクが反論しないうちにムスビはボクの腕を取って岩穴から連れ出した。山奥とは言え昼の光は強く、ボクは目をしかめつつ人影を見た。そこにはとんでもなく太った醜女と、見るからに野暮ったく暗い風体の杖をついた女とが心もとなさそうに立って居る姿であった。ムスビは彼女らに聞こえないように、まるでボクとは長年の共犯者なのだという男特有の女々しい雰囲気でボクに耳打ちした。「あいつらをやるからさ、俺ああいうの興味ないから」

男の夢想にはまずのぼらないであろう女たちを目の前にボクは固まっていた。影としか例えようのない彼女らはおずおずと口を開いた。何と言っていたのかは聞き取れなかったがこの女としての欠落品たちが言うには、ムスビさんとは関係を持ったが恋人というわけではなく、しかし行く当てもないと彼に相談したらここに連れてきてもらったという話だった。そろそろすべてが潮時だと諭す神の声を声聴きは聞いた。神の声は『汝の敵を愛せ』といよいよ迫ってもいた。彼自身も男としての欠落品であると彼は自分を諫め、とんでもない肥満女と脚萎え女に向かって正々堂々と頭を下げてこう言ったのだった。「すみません、ここには置いてやれません、僕自身がここを出ていくしかなさそうだからです」欠落品たちは意外にも静かに頷いた。居場所が無い…そんな答えは生まれた当初からわかっていたという風でもあった。せめて一晩か二晩くらい泊めてくれと彼女らはぼそぼそと願い出た。強く追い返したらそのまま徒歩で下山しそうなほど気弱な様子にボクは心を痛め、ありあわせのもので料理をこしらえてこの闖入者二人に振舞った。悲劇が起こったのはそんな晩であった。法の外側であるこの森林地帯を切り裂くような悲鳴がログハウスからあがった。ムスビと同棲する女のうちのひとりが臨月を迎えたことをふと思い出し、さすがにこうもしていられないということでボクを含めた欠落品たちは影のようにログハウスに向かった。辺りは一面真っ暗闇だった。

ムスビは平然として部屋着のまま表玄関の前に座していた。中では悲鳴が上がっていた。この悲鳴はどうやら出産中の妊婦のものではなく残る二人の女の悲鳴であると悟ったのは、ボクとその連れの二人が部屋の中に入ってからだった。風呂場で早朝から行われていた出産がうまくゆかず、臨月の妊婦は赤紫色になって血だらけのバスタブの中に浮いているのだった…どんなに贔屓目に見ても彼女が死んでいるのは間違いのない事実であった。その女はかの、畑をぶんどっていった農家育ちを自称する女であった。二人の女は取り乱していた、さっきまでは息があったとかしゃべっていたとか言って騒いで叫んで、見ているだけでもこっちの腹まで破裂しそうな勢いで突き出た腹をした死んだ妊婦を懸命に揺り動かしている最中だった。ボクははじめて目にする女の裸体に息を飲んでいた。血の海と化した湯船に浸かっているのはたぶん水中出産か何かをしようとした痕跡なのだろうと察せられ、股からは何か黒いものが出ているのが見えた…それが子供の頭であるのを見て取った瞬間に彼は食べたものをその場に戻していた。

とんでもない肥満女と陰気な脚萎えが必死にとりなしてくれたおかげで、出産途上で壊死した赤ん坊とその母体を見て嘔吐したことについてそれ以上ギャーギャー騒がれることもなかった。靄のような彼女らが居なかったら残る半狂乱の二人の香水臭い女たちに本気でリンチされていたかもしれないとボクは思い冷や汗をかいた。吐瀉物までもをかの欠落した二人がすぐに清掃してくれたのには助かったと彼は胸をなでおろした。あの欠落品たちは自らがおぞましい存在であるが故に、おぞましいものに対する嫌悪感が薄いようにすら見えた。肥満と足萎えに精いっぱいの礼を言い、ムスビのところまで行くと彼は相変わらず玄関先で平然としているばかりであった。山の朝日が彼の整った顔と黒々とした髪を照らしていた。ひどく客観的な感覚で、改めて見ると本当に綺麗な男だなとどこか遠い場所からボクはそれを見て思っていた。一方でさてなんて声をかければいいのかと戸惑ってもいた。一応子供を亡くした父親ということにもなるのだし、子供どころか妻さえも亡くしたのだ…たとえその妻が3人ないし5人居たとしても、その妻には法律上の夫が他に居たとしても…それでも今の彼に必要なのは慰めのような気がしないでもないとボクは思った。汝の敵を愛せ、声聴きはその言葉を受け取るとムスビに話しかけようとした。だが予想に反してムスビはくるりとボクに向き直ってこう言った「死体どうしよっか?面倒なことになったな」

畑の隅にかつての森の神を埋めた場所があった。森の神は幾年もの間土に吸われ、ボクはその土を畑に使って自身の罪科を喰らって生きていたのだった。しかし股に嬰児の頭を突き出したまま巨大な腹をそのままにしておっ死んでいる女の死骸などを畑の傍に埋めるのは生理的に無理だし畑という神聖な土への冒涜のようですらあると思い、ボクはムスビに、この山の中腹に広がる森が一番人気が無く適当であるということを告げた。ムスビは頷き、そのまま二人は大きなスコップを持ち、母体と嬰児の複合体は…彼女自身が発注した土の袋に詰め込み、血がしたたるので農作物に使うビニールシートでぐるぐる巻きにした。死体というのは素っ裸のほうが何かと楽で、身元も割れなければ土に還るのも早くなるし良いことだらけだった。幸いにも件の母体は素っ裸で出産に挑んでいたため服を脱がせたりする処理は省けた。動物園で見たオットセイやトドと見紛うほどに巨体じみていたその死体はあまりに重かったので、肥満女も手伝って三人がかりで車に遺体を乗せ、何かと手間取る作業をするために念のために脚萎えも乗せて4人で山の中腹へと下って行った。車中は4人とも無言であった。残る二人の香水女は血の海と化したログハウスを清める作業にあたっていた。死体遺棄への出発前、妊娠中のもう一人の女はすっかり怖気づき、もう下山すると言ってきかなかったがムスビは取り合わずに彼女らを置いて車に乗り込んだのだった。秋の山はもう肌寒く、正体不明の動物の声が呼応するのが聞こえた。まるで新しい肉が手に入るのを今か今かと待ち構える獣が生命の賛歌を歌っているかのようであった。

ほとんど押し黙ったままの4人は鬱蒼と茂る草木をかき分けて適当な場所を探した。土を掘る作業はボク、ムスビ、肥満女の三人がかりで行われた。陰気な脚萎えは墓守よろしくその間遺体の番をしていた。まかり間違って息を吹き返すことが無いとも限らない…ムスビは特に焦っているようだった。息を吹き返す前にこの女体を片してしまわないと気が済まないといった風で珍しく傍目にもわかるほどに苛々していた。いつのまにか昼過ぎになり、黄泉の国へと続く深い穴が掘り終わり、4人は穴の上に立つと遺体を土袋から取り出し、ビニールを取り外し、赤裸にして投げ落とした。股から嬰児をのぞかせた血だらけの遺体は手を広げて奇妙な笑みを浮かべていた。「きもいな」ムスビがつぶやき、自分の内部に湧き出た軽蔑感情に堪えきれないといった様子で笑い出した。他の三人は無言だった。「グロいからすぐ埋めて埋めて!!」ひとしきり笑ったムスビは3人を急かし、土をかけ始めた。「大丈夫、田舎の人参農家の3女とか世の中の誰も気にしないから!それにこいつ自分で俺と寝て自分で子供産むのしくじって自分で死んだんだ、文句はないはずだよ」ムスビは独特に気が高ぶっているらしくボクを小突いて続けた。「ね、ボクさん、あんたもこいつが死んでその実せいせいしてるっしょ?こいつの事ボコボコにしたかったんだろ?心の中で犯してぶっ殺してたんだろ?わかってるって、こいつちょっとうざかったしな!子供が生まれてたらまたデカい顔して仕切ろうとしただろうから、ちょうどよかったっしょ!」二代目の森の神、この声聴きが心で汝の敵を愛せと強く強く響くのを感じながら、ほとんど反射的にムスビという男を力いっぱい殴ったのは彼がすべての言葉を言い終える少し前だった。

ムスビは殴られた拍子によろめいた。それはあまりにも彼にとって予想外の出来事だったらしく、殴られた頬を抑える間もなく、弱小農家の三女が股から子供を絞り出したまま投げ落とされたその穴に勢いよく転がり落ちた。ムスビは彼にしては長時間唖然としたまま動けずにいる風だった。ボクはスコップで上からムスビを容赦なく殴り続けた。不可思議な何かが体に入り込んだ人間のように…確かに彼に内在するかつての森の神も今回の暴行に加勢したのかもしれなかった…殴り続けてはいたが、ムスビはさすがの美丈夫でひとしきり殴られたのちにボクの足首を掴んでいきなり墓穴に引きずり下ろし、あっという間にボクに馬乗りになって彼が意識を失いかけるまで拳いっぱい殴りつけ、上で茫然としながら見つめる肥満女と脚萎えに怒鳴った。「おい!!お前ら何してんだ!!こいつを縛れ、一緒にここに埋めちまうぞ!!」ボクはほんの一秒間の間に二つの道が分かれているのを見て取った…それは長い長い一秒だった…確かに自分もかつての森の神を殺した罪人であった、首を切り落とした張本人であった。だから罪人らしく殺されるのが定めのような気もした。しかしもう一つの道もまた超然と光っているのだった。『神よお許しください』ボクはこれでも周囲一帯の人間に受け入れられている二代目の森の神であった。この森の神の生活、人々とのほどよい距離、悩みごとを聞いてあげたり神託めいたものを受け取ったりそれを開示したりするこの生活をかの畑同様彼は愛していた。この生活をもう少し続ける中で…自分が変われるような気がした。ムスビを殴ったのもその一環であって決して、真実の意味では決して、彼を殺そうとしたわけではなかった。その話を出来るならばムスビ本人にしたいとボクは強く思った。無論到底無理だろうとも思えた。朦朧とする意識の中で地面に寝かされたボクは部屋着のハーフパンツを履いたままのムスビの剥き出しの足首を思い切り噛んだ。じわっと生暖かい血の味が広がった。

ムスビの足に自分が人間であることさえも忘却するほどの咬合力で噛みついて、千切れた肉が口に詰まってそれを吐き出したのがおよそ一時間後であることを悟った時の驚きは強烈であった。ボクは何が起こったのかわからずに周囲を見回した。相変わらず死んだ母体の上で転げまわっていたのだ。目の前にはムスビが縄紐で首を絞められて悶死しているのを理解し、ボクは発作的に叫んだ。それは声にならない叫びだった。「あのままではあなたは殺されていましたよ」後ろで女と思しき低い声がした。振り返ると脚萎えが紙コップを持って座っていた。何故かしきりに紙コップを差し出してくるので戸惑っていると、「ボクさん、口をゆすいだほうが…」と言いかけ、それを聞いた瞬間にムスビの血の味と肉片にまたもや嘔吐したのをボクは恥じながらえずき続けた。背中をさする脚萎えの手は震えていた。上から声がした。「もうそろそろやばいよ」肥満女がそう言って僕らを促した。3人は立ち上がると墓穴から這い出て、寝転がる二体…あるいは一家族…彼らの身体に一心不乱に土をかけ始めた。もう今度は綺麗ごとを言っている暇は無かった。ムスビが息を吹き返す前に土に埋めてしまいたかった。意外にも日暮れまでまだ時間のあるうちに地面は平らになった。もちろんあからさまに人為的に平らにされていたのだが…それでもいちいちこの地面を掘りかえす人間が居るとも思えなかったし、ムスビや母体もどき共がこの分厚い土の層と化した布団をめくってまで這って出てくるとは到底思えなかったし、声聴きである彼の直感もこのことに関して何ら警告を発さなかった。森の神がずっと聴いていたのは『汝の敵を愛せ』という言葉だけだった。

ログハウスに戻ってみると残る二人の香水臭い女たちは荷造りをしていた。誰も本名を知らない間柄であるので引き留めるとか、この件についてばらしたらただじゃ済まないと脅すことも叶わないような殺伐とした雰囲気が漂っていた。ボクは明朝に女たちをふもとまで送り届けた。女たちは振り返りもせずに逃げ帰っていった。ムスビが帰宅しないことに関して彼女たちは独自に、あの身勝手で美丈夫なムスビが一足先にふもとや都会に帰っていった…自分たちを捨てたのだと解釈しているようだった。自分たちを置いて行った男が憎い…そんな思い込みのせいで彼女たちは少なからず怒っている風でもあったが、もとより心理的距離のあるボクにはムスビに関することを質問したくないらしく、何も言わずに去っていった。

ボクが掘っ立て小屋まで戻ると肥満女と脚萎えが待っていた。彼女らの作った何らかの料理を口に運びながらボクは考えた。目の前のこの二人はあの美丈夫な男をぶっ殺した張本人たちなのだと思うといよいよこの欠落品たちが化け物じみてくる一方で、ボク自身の命の恩人でもあるこの二人を悪く思うのも罰当たりな気がした。肥満女がぽつりと言い始めた。「あのう、私ね、ムスビさんの事殺そうと思ってここに来たの」そして彼女の目配せで脚萎えも頷き、その後の言葉を引き継いだ。「私たちはね、ここに来る道中に知り合ったんです、私も私でムスビさんに強い恨みを抱いていました、それで彼に従うふりをしてここまでくる最中に、彼女と引き合わされて、なんとなく雰囲気で…お互いの事を打ち明けたんです、そしたら私たち二人とも、ムスビさんを殺すためにここに来たってことがわかったんです」ボクが唖然としていると脚萎えは言った。「恨みっていうのは痴情のもつれとかそんなんじゃないんです、そういうレベルの…人間と人間っていうレベルの話ではないんです、そんな扱いを彼からされたことは無いんです…欠落品扱いされたから恨んでいるってわけでもないんです、私は、以前、彼から暴行を受けました、本当に何の脈絡もなく、です、復讐したいって強く思ったのは、再び彼に出会った時です、ヘラヘラ笑ってるの見たら、殺したいって気持ちが、殺そうっていう確信に変わったんです」脚萎えはふうっと息をつき、ボクを見据えた。「私は、被害者ってわけではないんです、私も、全くほかの人にひどいことをしてきたのだとわかっています、気付かずにいろんなことを踏みにじりました、きっと、私も、ヘラヘラしていたと思います、だからいざここに来てみてとてもためらったんです」確かにムスビという男は思ったことをすぐに実行するタイプだった。女と寝たければ寝て、家を建てたければ建てる…いつだったかボクに、かつての森の神の貯金を盗むことと殺しを嬉しそうに誘ってきたのはそういう目をした男だった。ある意味純真無垢とすら言える男。いくらムスビがもてるとはいえ、いきなり暴行をしたくなるという衝動と女と普通に付き合うという情熱とが必ずしも一致するわけではなく、単になぶりものにしてみたかったとかそんな感覚でこの目の前の女もどきを暴力的に襲ったのも十分に在り得る話だとボクは思い、頷いた。彼女らがここに来た当初から妙におどおどしていた理由がわかり、ボクは少し安堵した。肥満女のほうは目に涙をためていた。

翌朝、ログハウスを片付けに出向いた。肥満女は作業しながら言った。「私は彼に弟を殺されたの、私もいじめられた…昔はガリガリだったの、でもね、向精神薬って知ってる?私あれを飲んでからこんなになっちゃったの」そうやって照れるように肩をすくめた。「だからムスビさんは…あいつは私を見ても昔の私だってわからなかったみたい」血ですっかり染まったシーツやら何やらを出してボクと欠落品は野焼きの要領でそれを燃やした。秋の日は煙をぐんぐん吸って山の中の空気は、こんなことが起こったとは思えないほどにのどかであった。脚萎えは言った。「私たち、これから出頭しようと思ってます、今回の事は私たちの責任ですから…いえ、私だけの責任にしていただいても構わないんです」肥満女が笑った。「別に刑務所入ってもいいよね、だって道歩いててすれ違いざまにキモイとか言われるの、もう疲れちゃったし!」そこには彼女が泣いたであろうすべての日の重苦が詰まってるはずであったのにそれを敢えて明るく語る肥満女のほがらかな声に、ボクは思わず泣きそうになった。追い打ちをかけるように脚萎えがつぶやくのが聞こえた。「あーあ、この世はどこもかしこも刑務所なんですよ、どこに居ても変わらないんです、何で神様はああいう人に健康な体をお与えになるのでしょうね…」肥満女が返した。「いや、もしかすると私も、今の自分でなかったら残酷な人になってたかもしれない、何にも気付かずに人を笑ってたかも、それって重い重い罪だよ」そして肩をすくめて続けた。「この身体くらい、ね」脚萎えと肥満女は互いに顔を見合わせて笑った。つられてボクも笑った。こんな身を呈した自虐に笑ってはいけないと思いつつもあまりの素直な言葉につい笑顔になってしまったのだった。ごめんと一応肥満女に謝ってから身を正して言った。「僕も罪を犯しました、正直に言います、もともとここに住んでいた人が居たんです、その人を僕とムスビさんとで殺しました、僕はその後釜になってここで何食わぬ顔をして暮らしていたんです、彼を責める筋合いなんて本当は、僕には無いんです」

意外と言えば意外、想定内といえば想定内でもあった。この二人の女もどきは殺人の話を聞いても態度を変えることなくボクを見つめていた。ボクという男を恐れることもしなければとってつけたような慰めを言うわけでもなく、ボクの発する神殺しについてじっと聴いてくれていた。ボクはまた一瞬、自分が空っぽになってゆくのを感じた。森の神は分散してボク等3人の身体に入って行ったように思え、束の間彼にしかわからない不安さを味わった。森の神が薄まった事によりまた挙動があやふやになるのではないか?呂律がまわらなくなるのではないか?都会で、学校で、仕事場でされたようにこの女もどきたちからさえも距離を…それもとんでもない距離を置かれるのではないか?からかわれるのではないかという悪夢が彼を駆け巡った。まるでそれを察知したかのように肥満女がボクの手に触れた。それは何処か件の岩穴を思わせたがもっともっと原始的な…友情とか愛情とかいう区分の不可能な部分にあたる愛の行為であるように思え、こらえきれなくなってボクは唐突に泣き出した。『人類の母』…何故かそんな言葉が声聴きに届いていた。脚萎えがハンカチを差し出し、ボクはそれを受け取って目を覆った。この罪の告白に二人は無言で付き合い、彼の涙が止むと静かに言った。「私たちも罪を犯しました、ムスビさんを殺しましたし、きっと…いろんな人や生き物や空間をも傷つけてきたと思っています、ボクさん、ボクさんは森の神様をやっていてください」

三人の話し合いの末、このことは数珠つなぎでの露見を防ぐために全員黙っていることに決め、肥満女と脚萎えは去っていった。この見解に対して三者三様に別れを惜しんだ…というのもムスビという美丈夫殺しが露見すれば必然的にこのあたりの捜索が行われ、ほとんど必然的にかつての森の神殺しが露見してしまうということに思い至ったからだ。ボクはあきらめて出頭するのもひとつの人生だと提案したが二人は首を縦には振らなかった。現森の神としてのボクのやっていることは続けるべきで、あなたはここで声聴きとして生きるべきだと二人は頑なに譲らなかったし、確かに、ボクの内部で何かが強烈に叫んでいた、汝の敵を愛せよと叫んでいたのだった。そういうわけで事の露見を防ぐには最早一生顔を会わせることのないこの三者が、彼ら以外には理解出来ない独自の友情で結ばれていること…ムスビの死によって結ばれていることを知るものはこの世に居なかった。これを秘めたるものにするべく、今生の別れを静かに惜しんだ。

それからボクというこの声聴きはいつもどおりの静かな日々を送った。唐突に出現して全く使われる形跡の無いログハウスを奇妙に思う人も居たようだが、かような山奥での珍事に首を突っ込むほどの暇人は居なかったし、なにせ森の神様のすることであるので稀に彼の元を訪れる信者のうち誰も口を出さなかった。…たまに強烈な後悔が襲い、どんよりとした昼間や夏の夕暮れ、気が違ったみたいに晴れ渡った春の日などにログハウスから笑い声が漏れているように感じられることもあり、ボクは一人狂気に耐えねばならないことをひどく苦しんだ。…せめて肥満女か脚萎えのどちらか…心底どちらでもよかった、それは愛情ではなくて友愛であったからだ…彼女らのうちどちらかがそばについて残っていてくれたのなら、何の苦労もなく乗り越えられる悪夢だとわかっていたからだ。しかしこれこそが殺人というものの責め苦であると彼は理解していた。森の神は何の祟りもなく彼に宿ったのに対し、動物的なムスビたち一家の祟りめいた幻聴は、ボクをますます世間から離れさせ、それが意外にも真の神の声を聴く作業に専念させるに至った。それからまた数十年の時間が流れた。ボクは世間という漠然としたものを恐れ、その結果国というもっと正体不明の代物を恐れるようになった、心の内側で信頼できたのは肥満女と脚萎えだけであったが生涯連絡を取ることは無かった。

過疎の山奥ではあったが驚くべきことに…ネットのおかげもあってか、ずっと昔から山奥で仙人生活をしている人がいるとか、デジタル貨幣に一切頼らず生きている人がいる等の噂は根強く残っていたので時折信者が来ては森の神に神託を伺い、布施料も払った。彼がこうしたものをついに受け取れなくなったらあっけなく餓死するであろうことは信者たちも気付いていたため、些細なものでも持ってっいって腹の足しにするようにと玄関先に置いたりしていた。相変わらず森の神であるところのボクは掘っ立て小屋に住んでおり、ログハウスを忌み嫌っていた。信者が聞くとあそこは幽霊が出ると老人となったボクは呟くのだった。ではうちの近所に空き家があるのでぜひ来てくださいと別の信者が提案すると、怨憎会苦だよと言って彼は力なく笑うのだった。大事なのは敵を愛す事だ、それを人生全部を費やして教えられているんだと老いた二代目森の神は笑った、そんな折にたまにひょっこりと若者が訪ねてくることもあった。

「いいですか、国を信じてはいけません、そんな幻想みたいなものを信じたりする意味は無いんですよ、だから国税調査には一切答えてはいけません、答えないという権限が我々国民にはあるんですから、法律の中にぎゅうぎゅう詰めにされて生きるだけが人間の価値じゃないんです、お金はほとんどデジタルで管理されているけれどそれは君たちが国に管理されていることにほかならないんです、出来れば現金を貯めてください、あるいは金か物々交換をしたほうがいいです、自分自身を守りなさい、世間や国から守りなさい、世間や国からの嘲笑から我が身を守りなさい、そしてこれが一番大切なことですが…女性を不用意に妊娠させてはいけません、産婦人科でももっと避妊についての技術や薬を認可すべきなんです」二代目森の神は確かにこれでひどい目に遭っていた。とんでもなく膨れ上がった腹をかかえた女の霊にあれから散々苛め抜かれていた。今でも年に一度はログハウスに行って、不審火が出たりしないか色々なものを点検するついでに風呂場も開ける。するとそこには血だらけの女が目を見開いて腹の子もろとも笑っているのだ…こんな悪夢に苛まれているのだから女を不用意に妊娠させることだけはこの三つの内の中で一番あってはならない事だと彼は口酸っぱく若者たちに諭した。しかしその態度は、どこか自分が罰せられるのを待っている風でもあった。なので若者は若者特有の好奇心に抗えず、おずおずと、時に笑いをこらえながら質問した。「あのうそれは…森の神様、あなたが何か女性にかつて悪いことをしたってことですか?」森の神はその質問を制した。「今、君の後ろに今突っ立ってる妊婦の亡霊はね」若者はこの言葉にすくみ上って後ろを振り返った。老いた二代目森の神は続けた。「あの亡霊は、どっかの誰かさんの情婦の悪霊に過ぎないんです、僕は生涯に渡り一切女性には手を触れてないんですから…いや一度だけ女性に手を握ってもらったことがありましたっけ」二代目森の神は微笑んだ、若者も微笑んだ。

森の神は先代がそうしたように床板を剥いで貯めている金を夜のうちに数えていた。若者は眠っているのか起きているのかわからなかった。なかなかの好青年だと思って森の神は眠りについた。永遠の眠りについたと言ったほうがいいだろうか…真夜中にきらっと光るものが自分を見ているのに気づいて彼は飛び起きた。それがかの好青年であることに最早なんの疑いも抱いていなかった。森の神であるところのボクは全てを理解していた。

「待っていたよ、ムスビ、君を待っていたんだ、何十年もの間君をずっと待っていたんだ、さぁ僕を殺すがいい」

若者は刃物を喉元に突き付けて戸惑うように言った。「呆けてんのか爺」ボクは若者に朗らかに返答した。「そうとも呆けているとも、僕は本来もうとっくの昔に死んでいるんだよ、ムスビ、やっぱり君はまた来たんだね、わかってるよ、なあ、あの二人には罪を着せないでもらえないかな?あの肥満女と脚萎えは…悪い人間じゃないんだ、僕を笑ったりけなしたりしなかった、彼女らはもう死んだかもしれないけれど黄泉の国ではそっとしておいてやってくれないか?いくらやりたいことをやるっていう君の流儀でも、いきなり殴ったりしないでやってくれないかな、僕はあの二人に愛着があるんだ、なあ、僕があのとき君に殺されていたとしたらさ、僕はやっぱりこうして爺になったであろう君を殺しに来たのかなあ?」若者は刃物をさらに押し付け、森の神は血を流しながら続けた。「僕ははじめのうち君を憎んでいたよムスビ、君も香水臭いあの女たちも心底憎んでたんだ、だからそんな君に殺されたりしたら僕はすぐにこの世に舞い戻ってきて君を殺したと思う」森の神はさらに言った。口から血が溢れていたが構わずにしゃべり続けた。「でもね、長い間暮らしていて、君らがとっかえちまった畑の土をまた自分で作って過ごしていたらさ、思ったんだよ、僕はもう今では君を全く憎んでないって、だから僕がもし君にあの時に殺されていたとしてもね、僕は君を殺すことは無いだろうってね、汝の敵を愛せって神はいつも言うよ、かつての森の神は僕らを憎んでなかった、殺されても僕らを憎むことをしなかったんだよ、ねえムスビ、君は気づいていたかい?最初の森の神、彼は本当に本物の声聴きだったんだ、本当に汝の敵を愛していたんだよ!もしかすると彼も誰かを殺していたのかもしれないけれど…罪を神は許すんだ、この世は牢獄なんかじゃないんだよ、ムスビ、君が殺したいのなら僕を殺すといい、僕は君に本当のことを話したいといつも思っていたんだ」最後の言葉は血の泡でかき消されていたが、森の神が微笑んでいることを、殺されながらも相手を慈しんでいることを、若者は、この森林地帯という一種の法の外側で確かに体感していた。自分が殺している相手から慈しみを受けるという神秘体験をしていたのだ。

まさにその理由からこの若者は変容し、神殺しの翌日から、森の神を自称することになったのだった。