旧約聖書朗読【ヨナ書】

最高の音質でパッと録音できたらいいのに…と思い始めて早二年、そんな風に思うならレンタルスタジオでも行けばいいんだが、消えてしまう事にお金を使いたくない性分なのでマイク代として残しているが果たしていつ買えるのやら。

【考察】

ヨナという人物が神に預言を賜り、それを伝えに行く途中で『この予言は外れるだろうなあ』と個人的に予感して、神からの使命を放棄して海外逃亡(船に乗って海の外へ逃げる)を謀るも、神にすべてを見通されて嵐に合う。

ヨナは『自分の使命を自覚していながらそれを裏切ること』を実感しているので、海に嵐を鎮めるためのいけにえとして投げ入れられ、魚に飲み込まれて内省する。

いわば運命のどん底にあるときに『神が自分を許されている事』を知り、自分の中に使命として神が生きておられることを体感し、ついに魚の腹の中からこの世へと再び生まれ出で、滅びの街へ行く。

これが旧約らしいなあと感じるのは『荒布をまとってしおらしくしている』という劇中劇めいた祈りの方法が有効な世界観である点だ。

イエスキリストはこの種の劇中劇精神状態を『神はすべて許されている』という言葉で全体的に諭している。

昨今の世の中を見ると、『まだ旧約時代なのかな』と感じられることが多数ある。この感覚がキリスト教感覚なのだと私は思うのだが…当の聖職者たちはひょっとすると旧約時代を生きているのかもしれない。

ヨナもかなり世の中と神を斜に見ているようで、キリストよりも先に『神はすべてを許されている』事を体感していたのではないかとも受け取れる。

また一方で、荒布を纏う行なり、恐怖の大王が来るという類の預言なりがことごとく外れるのを恐れ、そもそも民が救われているという喜ばしい事実よりも、阿鼻叫喚の叫びを自らのプライド?(あるいはやった分だけ報われるという誤ったカルマ的解釈)のために臨むという…実にくだらない人間らしさも持ち合わせている人物像、それがヨナである。

そういった意味で私は非常にヨナ書が好きである。

やった分だけ報われるはずだという誤ったカルマ的解釈について少し述べておこう…カルマは存在するが、これは神の愛に基づいている場合にのみ、神的領域から順に作用してゆくものだと個人的には考えている。つまり表層には表れにくいものだと感じている。