【聖書朗読】マタイによる福音書(後編17~28章)

聖書は幼少期は禁書だったので、このようなものを朗読している自分が不思議でもある。内容を見ても私は聖書には相応しくない人間である。ただ、その矛盾にこそ、創造主の器のデカさのようなものを感じる。

・第十八章→「もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。」

これは明らかに付け足された文章だろうと思う。何故なら新約聖書の出来事がリアルタイムで進行していた時には教会という存在自体、原文を読んでもわかるように、まだ無かったと思うからだ。かといって「会堂」だと、旧約の世界から脱却も出来ないわけで…おそらく当初は「仲間に相談しなさい」というような文言だったと推察できるが、中世期などに書き換えられたのだろう。まあこれは素人の考えでしかないが…結構わかりやすい突っ込みどころである。こういう箇所が、新約聖書がいつまでもどこか新興宗教っぽさを拭えない要因を作ってしまっている気がするので、実に残念である。旧約にはこの種の稚拙さが見いだせないので、書物としては完成度が高い。(概念としてはヘブライ人しか救われないので、未熟だとは思うが。)

・十九章→離縁について

前編でも述べたが「彼らはもはや、ふたりではなく一体である。」「その言葉を受けいれることができるのは すべての人ではなく、ただそれを授けられている人々だけである。」という言葉から察するに、そもそもこの世の全員が性的結合に呼ばれているわけではないと断言している言葉である。新約聖書のキツイ所は、恋愛や仕事といったことに関して、割と一部の強者だけが世界の運営に加われる…ともとれる言葉が見られるところだ。深読みすると、恋愛結婚をとても推進している一方で、運命の人(異性)の居る人はごく一部なのだから、不必要に人口を増やすなと言っているようにも思える。逆に潔く諦めて、正々堂々と孤独に生きた方が神のみ旨に沿うとも言える。

・第二十二章→「また、地上のだれをも、父と呼んではならない。」

あえて明記しないが…わりと聖書には直接的に矛盾することが、宗教団体に於いては堂々と行われているように思えてならないです。

・「偽善な律法学者、パリ サイ人(びと)たちよ。」

この繰り返しの文言は、旧約聖書の詩歌リズムと似ているので、個人的に結構好みだ。そしてこの種の人というのが…どんな人、どんな思想、どんな社会的役割を指しているのかを…この数年でみっちり学んだように思えるので、割と感情をこめて読むことが出来た。

・第二十四章→「信じるな」

イエスキリストとか、聖書というとすぐ「聞き従いましょう~」という文言が不随するように感じられるが…実は聖書に於いてイエスは「安易に人を信じるな」と言っているのである。「へびのように賢く」とも言っているので、鳩の素直さや羊の従順さばかりを推奨する宗教団体に対して、個人的にどうしても聖書と食い違うように感じてしまうのです。

さて、マタイによる福音書に対しての突っ込みどころをいろいろ書いたが、それでも聖書は好きだし、謎の懐かしさを感じている。ただ批判をしたいわけではないことをここに記しておきます。