旧約聖書朗読【詩篇Ⅲ】第3巻

外来語を省いたり邦語訳したりするのはなぜか?というと

・外来語のまま民族賛歌を読んだら、自分以外の民族を讃えることになってしまうから。

どうも私はひねくれ者で、詩篇などの民族賛歌を外来語で讃える事に関してとても違和感があるのです。キリスト教の中ではおそらくヘブライ民族=キリストを生み出した民族という事で絶妙に…みんながキリストに跪く的なイメージ??になっていると推測するが、それ以外の人からすると『古代ヘブライ民族に傅くような感じ』が否めないのです。

そもそも詩篇で言われる悪しき者、偶像崇拝の民って、潜在的にはおそらくヘブライ民族以外の諸民族だよね?と思わざるを得ないのですよ。詩篇も最終的にはヘブライ民族の救済を解いています。(ヘブライ民族が記したんだから当たり前か…。)

よって『古代ヘブライ民族』ではなく、全人類に共通するような感覚で『自分の所属集団が救われますように』という意訳を施した。多少身勝手な感じが否めないが、これで詩篇を理屈の上では『登場人物として』読むことが可能だと…私は感じている。

では果たして自分の民族とは何か?私の意訳した神の王国の民とは何か?…それは自分の宗教的価値観でもいいし、それこそ『地球人』でもいい。神の王国の民は誰だっていいのだと私は考える。だって、心の中の国だから。そしてこの主観(観測するための眼)こそが、神からの贈り物だと感ぜずにはいられない。

さて、聖書というものは元来ヘブライ民族の民族賛歌であるゆえ、彼らにとっては法律であり経典であり…ヘブライ民族の方々にとっては集団倫理として読むのが当たり前だと思う。

しかし新約聖書を含めた価値観で聖書を眺めると、必ずしも集団気質的価値観で聖書を読まなくてもいいのではないか?と思えてくるのだ。キリスト教という集団単位で読む場合もあると思うが…聖書を読むときの一人称が『わたし』なのか『わたしたち』なのか?…新約に触れてしまうとどうしても、『わたし(個人)』として聖書を読む瞬間が必要に思えてくるのです。

よって意訳と言う行為は我良し(自分さえよければいい)の個人主義を助長させるように感じさせてしまうかもしれないが…全く以て、集団気質で読む聖書を否定しているわけではない。(そもそも自分という存在の成り立ちすら、集団なのか個人なのかの線引きって難しいよなあと思う。空気や菌類と言った他者がなければ自分という個体は一瞬たりとも成立不可能なのだし。)

まあ色々書きましたが…なんとなく聴いてもらえればそれでいいのです。