旧約聖書朗読【意訳・ヨブ記/後編】21~42章私なりのヨブ記解釈その2

『それだから義人ヨブよ、これを聞け、
立って神のくすしきみわざを考えよ。
あなたの苦しい境遇は
人にとっては不幸だが
神がこの不幸をあなたにこさせられたのは
懲らしめのため
あるいはその土地のため
あるいはいつくしみのためである』

【ヨブ記の個人的解釈】因果応報はあるにせよ…その作用は計り知れないので、安直に良いことをしたから良いことがかえってくる、だから良いことをする…等という仕組みではない。

因果論の作用というものは人間世界のみに限らず、良いことをしたらそれがすぐ反作用として現れるのではなく、動物植物等すべてを含めて作用し、なおかつ時間的にも人間にはわかり難いタイミングで良い報いが訪れている。

さらにその時間と言うものに関しても、果たして時系列が直線的なのかどうか?人間の理解を超えた時間の流れがあると仮定すると、安直な人間世界に終始した善悪因果論は神的視点からはほとんど意味をなさない。

さらに言うと旧約聖書では特に死後の描写は無いので(新約でも明確ではない)、果たして魂が一人につき一つ在るのか?といった魂実在の有無も、因果の作用を謎にしている。魂が本当に一つ一つ分かれているのかも聖書に於いては不明だ。何が言いたいかと言うと、人間が本当の意味で個々人なのかどうかの是非すら、我々の世界ではいまだに不明なのだ。

だから特定の個人が良いことをした→その特定の個人、というものが…どこまで実在しているのかは当人にもわからないので、良いことをしたからと言ってその個人に良いことが返ってくるという仕組み自体が、成り立つのかどうかも曖昧。従って、個人の実在が曖昧なので、良いことをしたからといって良いことに恵まれるわけではない。

よってこれらの事を【全て理解している存在/み摂理】からすれば、個々人(というものがあると体感しているに過ぎない人々)の、個人的な嘆きなどにかまけている場合ではなく、神からすれば…個々人を生きているという体感のある生命体そのものを愛しているので、それぞれ(だと思っている存在たち)が素直に神(あるいは宇宙の摂理)に対して感謝して祈り、堂々としていてほしい、ついでに善行をしたら(個人というものが死後も含めた空間に於いては幻の可能性もあるので)すぐ忘れてほしい…としか言いようがないのもわからんでもない。

とにかく人間にはすべてが不明なのだ、幸不幸、時間、そして自分自身の存在さえ曖昧なのだ…この不明さが解き明かされるためには何が必要か?

それこそが、実は【限界に対する試み】だったりする、という話。だからヨブは不幸になった、限界にチャレンジできる人間として、だ。

この点に於いてヨブが不幸に見舞われる意味は十分にあると言える。(強い人間だから)

これは別に私個人が無宗教だからといって悪魔という存在を勧めている?わけではないと断っておこう。

また、神が河馬(カバ)とワニについて語る意味は、個人的には、『裸の人間は全ての生き物のうちでかなり弱く、裸の生き物のうちで一番めに強く作ったのは河馬で、そして強靭さで一番なのはワニだ、人間は弱い生き物』であり『人格まで環境に左右されてしまう』…だから『どんな環境でも屈強な生き物のように堂々と強くしていろ(男らしくせよ)』という事だと思っている。

ヨブ記を読んでいて河馬とワニの下りで、その一種のコミカルさに脱力した方も多く居ると思うが、私には実は、強い生き物を人間の比較として出すことには納得がいった。こんなにも弱い分、守られて生きているのだと暗に言っているようにも思われる。

さて、果たして不幸や苦しみには意味はあるのだろうか?

人生には、全く無益な苦しみというものが存在する。無益であり、ほとんど犠牲としか言いようのない苦しみには意味があるのか?

私は『苦しみに実直に対面し、決断し、行動するのであれば』意味はある、と思っている。行動といっても時に『耐え忍ぶ』事かもしれない…祈ることだけかもしれない。ただ、それで外部を責めるのではなく、ただただ勇気を持って直面し、尊厳を保ち続けて振る舞う時に、全てが神の恵みなのだと『わかる』のだと感じている。

この、尊厳を以て振る舞う、決意することほど…苦しみのさなかでは難しい。特に、特に、苦しみが自分自身だけでなく家族や人々に及んでいる場合…身の回りの集団のほとんどが苦しみに引き摺られて拗ねていたり、時に精神的に幼児退行していたりする場合、しっかりとした態度を一人で保ち続けるのはかなりの労力を使う。

どんな時でも男らしく(紳士的に/これは女性であっても)するのは至難の業だ。この、男らしい振る舞いの中には素直な涙も含まれる、と私は考える。斜に構えて皮肉の中に逃げ込むのではなく、実直な苦しみの涙を流すこともまた、自分に対して正々堂々としていると感じられる。

しかしながら苦しみに対して、一日一日を尊厳を以て振る舞うと決断でき、本当にそれを受け止めることが出来たときに人の人格は確かに(おそらく劇的に)昇華する。

そして実際の苦しみというものはヨブ記のようにやられる一方ではない。…よほど単純な性格の人間でない限り、ヨブのように自分の善人さに胡坐をかくような苦しみ方とは異なるだろう。苦しみには必ず後悔が付きまとう。

どのような苦しみであれ、どのような無意味さであれ、苦しみに引き摺られて人格破綻しないように(神の言う所の、男らしくせよ)、と…わりとすぐに自暴自棄になるタイプなので決意しているところだ。