【聖書朗読】マタイによる福音書(前編1~16章)

聖書を読むには、だいぶ矛盾した人間であるが…それでも何故か奇妙な懐かしさを感じるので、朗読せざるを得ないというのが私の心情である。

聖書を読んでいるというと、聖書の内容や考え方をそのまま信じていると思われがちだが…よく読み込めば、聖書の通りに生きるということはほとんど不可能であり、この不可能性に気付いたからこそ、聖典に惹かれている状態になるわけであり…特に新約聖書は突っ込みどころの多い書物でもあるので、ちょっと気になった点をピックアップしてみようかと思う。

あくまでもこれは無宗教者の素人が、聖書の神秘性を認めつつも、どうしても不可解に感じられる箇所を挙げているだけなので、これを以て聖書批判や宗教団体批判をしているわけではないことをご了承ください。

・第五章→姦淫するな

これは→「本当に好きな人(運命の人)意外とは肉体関係を持つな」という風に取れる。さらに言ってしまうと原文19章で「その言葉を受けいれることができるのは すべての人ではなく、ただそれを授けられている人々だけである。」とあるように、むしろ…ほとんどの人は実は運命の人(異性)など居ないので、子孫をもうけることのできる人は本当はごく一部なのではないか?という感じもする。耳の痛い話ではある。そもそも婚姻関係自体、性の場に呼ばれている人たちだけの神的契約であり、紳士淑女として過ごすというよりも、独身者が過半数を占めることが自然なのだと言っているように…あくまでも私には感じられた。聖書ってシビアだなあと思う。

・第八章→らい病の人の言葉「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」

原文では「御心ならばきよめていただけるのですが」という、日本語的に曖昧すぎて意図のつかめないものになっているが、私は(全く個人的に)これは清めていただけると断言しているように感じたのでそのように読んだ。ヘブライ人というのは穢れに関して宗教思想を結びつける民族のようなので、この人は病気の苦しみというよりも、関係性に於いて苦しんでいると言える。実は一番先にイエスの威力を信じ切ったのがこの人だろうと察せられる。

・第十一章→「あなたなのですか」洗礼のヨハネ

つまり洗礼のヨハネは、イエスが果たしてメシアなのかどうか…会って洗礼を授けてもなお、確信が持てなかったことを示しているとも言える。

※サムネイルについて

エーデルワイスには天使の謂れがあるので使用した。マタイによる福音書のシンボル→天使→天使の謂れのある花→エーデルワイスという感じ。

これも聖書原理主義的な方には逆鱗に触れるかもしれないが…なんか私は完璧主義とかルール原理主義の方の地雷を踏みがちなのだが、だからと言って何もせずにいるのはそれこそ、神のみ旨にそぐわないような気がしてならないので、あきらめて地雷平原を突っ走ろうかと思う。