旧約聖書朗読【詩篇Ⅳ】第4巻※神道と一神教の共通点についてのつぶやき

神社のお社には鏡がある…神道の概念には、観測するということそのものへの神格化がうまく表されていると思う。

この世というものは放っておいて勝手に出来たとは到底思えない。神の力が働いてこの世が出来たと私は感じている。この意味ではまさに神が世界を造りたもうたと思う。

ではそれをどう観測するのか?

人間は常に観測状態にあるわけではないと私は思っている。心の眼もそうだけど肉体の目も完全に目の前を観ているわけではないからだ。常に点滅を繰り返し、記憶や彼方の何らかの(としか言いようのない)空間を漂っている。

この世を視る、と心を決めたとき…神社だったら境内の奥の鏡と対峙する瞬間に、おそらく神を視るのだと思う。心眼を開いた瞬間だ。とはいえ人間、心眼を開きっぱなしにするとかなり生きる上で消耗すると思われるので、普段は至極曖昧な状態で過ごしているのだろうなあ。

…神社や神道の意味って今まで全然わからなかったし、家庭の事情で参拝は避けていた(まさに偶像崇拝という理由で)のだけれども、まさか旧約聖書の詩篇を読んで一神教と神道思想との共通点(神とは観測状態への敬称である)を見出すとは自分でも思ってもみなかった。

次巻132篇では『主よ、起きてあなたの力のはこと共に』という文言も見られる。私はこれを『力の箱』→『契約の箱』と捉えたのだが…この契約の箱も神社の神輿に似ている感じがする。しかし神社の中に神輿って仕舞われているのだろうか?旧約聖書にも清めの記述が度々見られるし、古代ヘブライ民族と古神道の思想って結構似ているのかも?

まあどっちも地球上の人間集団によって形成された思想体系なわけだから、そりゃ似ている所もあるだろうが、神道では神の子を宿す巫女という処女受胎なる概念もあるようなので不思議でもある。

度々示しておりますが…個人の妄想の類の話なので、私がいかなる思想を抱こうと、誰の思想をも侵害したりは出来ないのです。賛同する必要も無いのです。だから『全く以て違う』という意見を持たれた方も、朗読音源自体には意思も何も宿ってませんから、心安らかにお聞きいただければ幸いです。