【聖書朗読】ヨハネによる福音書(後編)※異端者がやがて正統派になる現象について個人的に思う事

はじめに書いておくが、私は、思想が同じであることを善と思っているわけではない。

さて、四つの福音書を読んで敢えて思うのは…史実の上ではどれもイエスの直属の弟子たちが書いたということになっているようだが…どうも、ルカとヨハネは、後から書かれたような気がしてならない。

特段、この種の真偽を明らかにしたいわけではない、だが、特にヨハネによる福音書は、読んでいて、独特の感覚に引きずり込まれる。主の愛した弟子の様子なども、強烈なイエスキリストのファンが完全な思い込みで自分自身を弟子の中に登場させたような感じで、それが悪い事というよりも、かえってその方が、一連の物語の確信に近づくには、都合がよかったようにも思われる。(物語としての聖書に参加しているような感覚を、読み手も体感出来るから。体験型福音書といったところか。この意図によって作成が許可された書物のような気がしてならないのだ。)

…話は変わるが、現実的に、ここ数年は、静かな戦争が起こっていたように思われる。

この種の事を書くと、離れてゆく人も居るかとは思うが…思想が違うからといって相手を拒絶していたら、おおよそ『律法学者』や『パリサイ派』のような状況に陥るだろう、それは私自身とて同様だ。

政治や宗教についての話題を避けるのは、相手と同じでない事に気付きたくないからだ。

私自身も、昔から変わり者だったが、とうとう今回の件では、この国に於いては完全な異端者だとわかった。

特にヨハネによる福音書では、ユダヤ集団に於ける異端者としての超初期キリスト教団の面影が見て取れる。数年前に読んだならば、イエスキリストの言い分はかなり上から目線に感じただろうが…今は、中規模集団に発生した異質な思想集団、初期キリスト教団の気持ちが良く分かる。

…かといって、特段、ここ数年来で思想を共にする人と出会ったりしたわけではない。仲間だと思っているわけでもない。

…ここから先の事は、本当に個人的な物事なので、読みたい人だけ読んでもらえればよいし、それを朗読と関連付けようが、別物と捉えようがどちらでもよい。ただ、このことに関してはヨハネによる福音書を読んでいてとても強く感じたことであるので、ここに書かせてもらう。

これは、件の注射による薬害があると仮定した上で語られる話であり、基本的には閉鎖的な小国にて、ハラスメントを受けた側の考えに重きを置いている。ただ、この考え方について、思う所があるのでそれを書く。

昨今の薬害と、体の不自由さ…これが全く関連が無いとは言い難い。

本当に体に支障をきたした人などは、亡くなった人が居るのと同様、居ると思う。

しかしながら、それを指して自業自得だとするのには疑問を感じる。

ヨハネによる福音書にあるように、すべての事は『ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである』と私は思う。

私は元々杖をついているが、多分…今後、むしろ私とこの数年間、思想を同じくしていた人たちから、「薬害でああなったのだ、自業自得だ」と、いずれ(あるいはもう今から)嘲笑されるのではないか?と感じている。

私自身は、件の薬も打たず、マスクもせずにいた異端の人であったが、哀しいことに…その異端の人たちから、潜在的な同胞から、やがて自分の身体の在り方について、今後、誤解を招くこともあろうと覚悟している。

これは私だけではなく、すべての身体の不自由な人にたいする差別が、今から後、潜在的には強まるのではないかと恐れている。

※…私が何を言いたいのかわかる方には、もうこんなことは、いちいち説明するまでもないだろうが、わからない人からすれば、何から何まできな臭いかもしれない。

そもそも古代ヘブライ民族は他民族から威圧されていた、その結果どんどん内輪社会を作り出し、ヘブライ語を大切にし、その代わり異端者には厳しい処置をした。

それは傍目にはいわゆる『ユダヤ人』と世界から失笑されるに至る態度だったに違いない。今なら、何故、『自分たちだけが救われる』と言っている閉鎖集団が馬鹿にされるのか良く分かる。馬鹿にしたい気持ちもわかる。

その中からキリスト教という異端者が発足した。彼らもまた迫害を受けた。

…迫害というのは、呪いのようなもので、個人に於いては許せたとしても、集団や、潜在的な思想集団に於いては往々にして何代も何代も…場合によっては千年、二千年と引き継がれる。

当時のヘブライ集団に於いて異端者であるキリストが、何故こんなにも、人を愛せと説いたのか?何故、許せと説いたのか?

これは個人間の事というよりも、ほとんど『流れとしての思想集団』に対しての戒めなのだということだ。

集団に於ける異端者というのは大抵、いずれは大集団となって元居た集団を制圧する。もっと言うと、迫害された分だけ『正統派』として迫害するに至る。迫害された本人はもう世代交代して居なくなっていたとしても、呪いを受け継いでしまう。

今回の静かな戦争にて、異端者だった人たちは…既に世界の正統派になりつつある。アフリカなどを含めた世界観で見たら、日本はかなり異質であるし、残念ながら、『閉鎖集団の掟を尊ぶ日本人』は今後より一層、他の人々から馬鹿にされ続けるだろう。

…とにかく今思うのは、この数年で異端者として扱われた人(同調圧力、ワクチンハラスメント、マスクハラスメントを受けた側)こそ、努めて、他者を許すべきなのだということだ。

このままの感覚で居たら、ほど遠くないうちに、かつての異端者、かつての被迫害者こそが、従順すぎる閉鎖集団を差別する筆頭になってしまうだろう。

その中には障害を持った人なども含まれる。

これが代々続いたとしたら?

だからこそ、自分を異端だと扱った大多数を許さなければならない。

未来の迫害者とならないために。

これが、主の杯というものだと心底、思う。そしてこの事を潜在的に理解した人は、自我意識では飲みたくなくとも、すべてを諦めて、潔く、この苦い杯を飲み干すより他ないのだ。

そのような覚悟が、ヨハネによる福音書を読んでいて生じたのです。

※もちろんこれは個人の思い込みで書いたものですのでね、私の言い分が何から何までさっぱりわからなくとも「こういう人も居るんだなあ」と流していただければ幸いです…。

余談ですが、とある医師の方に、例の注射を打っていない旨を伝えたところ、「それで良い。…しかし仮に多数派の誰かに高圧的な態度を取られても、それでも、従順な人たちを馬鹿にしちゃダメだよ」というような忠告を受けました。おそらくはその方は、わかっている人に対しては、このように忠告していたのだと思います。その忠告を、私も、ヨハネによる福音書を読んでさらに強く感じた次第です。