旧約聖書朗読【第三イザヤ書】56~66章

原文(1955年版口語訳聖書)に於いてさえ、第三イザヤ書は万人へ向けて書かれている事が感じられるので読んでいて高揚する。

視野の広い人というのは凝り固まった宗教集団にも居るものだなあと感心する。

聖書というのは基本的にはヘブライ人にだけ救いが約束されている聖典、もとい律法、というか六法全書的なモノであり、法律という概念を広めたのもおそらく彼らだろうと思われる。他国に対して法律を振りかざす場合に一番手っ取り早いのが万人共通の『唯一神』である。

…レビ記や申命記あたりを読んでいると、『学問信仰』を浸透させた世界初の人たちがヘブライ人であることは疑いようが無いように感じられ、恐ろしくもある。

学問、という直接的に生きることに関係ない概念をここまで強固にしたのは強固な聖典信仰がかなり絡んでいる。今日、及びおそらくあと一世紀は続くであろう、やや盲目的な学問信仰は紀元前から始まっていたのだと感じる。

だからこそ、聖典と呼ばれるものに関しては、そろそろ独自解釈という見解が必要なのではないかと私は考える。勿論これは個人解釈なので何の権威もない。正解も不正解もない、だから必要なのだ。

勿論、伝統があってこそ聖典に触れられるのであり、長い時間を旅するような感覚を得られるのも伝統信仰あってこそなので、どちらがどうと批判する気はないのだが。

さて、第三イザヤ書になると終末預言がなされる。これによると大体の人が神の計らいによって殺害されるらしい。全く救いようがない。だけどおそらく、このくだりは…悟りを指すのではないか?悟る人が少ないという意味ではなかろうか?

現に60章の『昼はもはや太陽があなたの光とならず…』というくだりも、馬鹿正直に読むと「このままテクノロジーが進んで太陽光の届かない所に住むようになるのか?」等とやたらと想像が掻き立てられるが、全文を読んでみるとこれが一種の『悟り』を指しているらしい事が感じられる。つまり『その時(内的に生き生きと生きている数少ない人たちは)皆悟るようになるので、暗がりで怖がるような原始的な生命状態ではなくなり、皆が(内的進化を遂げ)柔和になるので光が満ち足りる』という意味であることが推測される。

聖書ってよく読むと悟りの境地と合致する文言があるので面白い。

また66章も『生贄を捧げる者は犬を縊り殺す者』という文言に一瞬、動物愛護的な文言か?たじろぐが、これもよくよく読んでみると『形式だけ良いことをしていても中身が伴わないどころか、悪いことになってしまっている』という意味だと解る。

朗読し始めて改めて思ったが聖書って…かなり『嫌味』とか『喩え』『風刺』が多い。はっきり言わないことがヘブライ的美徳だったのだろうか?伏せるというよりもわざと曲がった表現をしたがるというか。

さらに事態を悲惨にさせているのが…(ネットを見聞している限りにおいても)…嫌味とか喩え、社会風刺の類をそもそもほとんど理解できない方が(頭の良し悪しに関わらず)案外いらっしゃる、ということだ。

恥ずかしながら私も初見だと解らないことも多々ある。

…嫌味や喩えを理解できないタイプの学問だけ出来るエリート、つまりコテコテの律法学者タイプが新約聖書や旧約を保ってきたとすれば…聖書の大部分がおそらく誤解された状態で伝わっているのではないか?と危惧する気持ちも生じる。

話はだいぶ逸れるが…※以下に書くことは超個人的解釈です。

旧約で言う『ただの喩えとしての姦淫』と、新約で言う『姦淫』っておそらく別の意味だなとわかる。旧約での姦淫の意味するところは全き『政治批判、権力批判』。わりとプロレタリア精神である。

一方…新約で過剰に言われる姦淫は、単なるいやらしいことではなくて、これ『セクハラ、モラハラ、パワハラ』の事なんじゃないか?と個人的には思う。(私はわりと現実的想像で聖書を読んでいるので、決して神々しいイメージにはならない。)

キリストは自由恋愛に於ける男女の婚姻を許している(男女を引き離してはならない等の発言をした)人間であるので、外部に対して示しておかなければならない事というのは実に多岐にわたったはずである。だから女性信者目当てで入団してくる男性信徒(たくさんいたと思う)に対してもキリスト自ら『女を口説くなら一夜ではなく一生添い遂げろ』とくぎを刺す必要があったのだろうと思われる。下世話すぎるだろうか?

もちろん、ただの超個人的な解釈(空想)だ…否定というよりも解釈が多岐にわたるほうが聖書の深みが増すと思うので、私としては自分の解釈で読み進めていきたい。