さて、この福音書のシンボルは鷲→空→天空→星…ということで星にまつわる植物を探したところ、アスターという、ラテン語で星を意味するキク科の花をイメージ画像にした。
今回気になるのは第9章にて、イエスが生まれつきの盲人の目を治したことにより…かえってその当事者が、詐病を疑われたり、目が見えるようになったにも関わらず、両親をはじめとし、地域社会に於いては疑惑を持たれる展開になる話…これはとても共感する。
身体の不自由さで一番強く感じるのが、詐病疑惑である。
9章に於いても、盲人の両親がどこか、自分の子供に対して素っ気ない態度を取るのが印象的だが、実際、盲目になる遺伝子を両親共々に持っているケースはあまりないだろうと思われるので、少なくとも両親のうち片親は、自分の子供が盲目であることに関して元々懐疑的であったのではないかと察せられる。
どうしてこの話に共感したのかというと、私も脚の具合が悪く、ざっくりいうと股関節の骨が足りないのと、股関節まわりが小さいのでその近辺の臓器も通常よりだいぶ小さいらしいので、段々無理がたたり、三十代半ばを過ぎたころから(朝から仕事や日々の生活をして)夕方になると痛みで立っていられなくなることが頻発したので、今では歩行時に杖をついている。
ただ、これに関して…父方にはこの種のいわゆる『脚の弱い人』…発達不全と呼ばれる身体状況の人が居ないため、ハッキリ言って父及び父方の親類が私を見たら、詐病にしか見えないと思う。
一方私の母方の血族には…実は昔から足の悪い人は居て、祖母なんかも聞くところによると三十代後半にはもう、常に足腰が痛いといっていたし、ある頃から杖を使用していたので、何も別に『最近の若い人はすぐに杖をつく、甘えている』という理屈も、実は通らないのである。
足の悪い人は昔からいる。
そしてまた、かの盲人の目が開けたときに、周囲の人が疑惑の目で彼を見たように…杖なしで歩いたり、庭作業していたりすると『作業できるの?』という疑惑を生じさせ…
そしてまた、杖で歩行していると『そんなに若いのに何故杖ついてるの?』という疑惑を生じさせ…
そうなのだ…第9章の盲人に降りかかった苦難、誰にも共感してもらえない苦難は、どこにでも起こるものだと痛感する。
不幸とは、こういうモノなんじゃないかと思います。
つまり盲人は沢山居て、一人きりでシロアムの池に行って目を洗っているのだ。
イエスキリストの秘跡と呼ばれるものは、その人の在り方を真に理解したことにあるだろう。
その状況を真に理解してくれる人が隣に居るとすれば、確かに…
すべての苦しみは癒されると解る。