【聖書朗読】マルコによる福音書(後編9~16章)

少し意味深長なところの見られるマルコ福音書。

最も感銘を受けたのが9章『わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。』…頭がいい。どんな世界でも、極めれば極めるほどに、原理主義的になりがちだが、亜流を認めることによって組織拡大を図るとは、さすがイエスキリストである。

あとペテロの言った『私は三つの小屋を建てましょう…』のくだりだが、モーセ、エリヤ、キリストの三つの小屋という形式の教会を、この記述の割に見たことが無いのだが…世界の何処かにはあるのだろうか?→と思って検索してみたところ、タボル山にある教会の屋根が三つなのがこれに由来するとあるが…それにしたってちょっと影が薄い。まあ、これ、古代ヘブライ人のペテロが言ったのは小屋というか幕屋なわけであるので、仕方ないか。

・10章「神ひとりのほかに善き者はいない」

イエスは自分の事すらも善人だとは言っていないのだ。イエスが一番嫌うのは悪人ではなく偽善者なのだ。

・15章「なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。」

これに関しては…私の心が下世話なせいか、どう見てもたくさんの恋人たちが居たのだろうなと思えてならない。イエスはもちろん、婚姻関係については…人口を無意味に増やしたくはないという気持ちでもあったのか、妙に運命の異性主義者で、一夫一婦制に拘っているが、家庭生活に呼ばれていない人の遊びに関しては、お互いを尊重するならば是としていたのではないか?

というのも、姦淫してはならない…の意味するところが、無意味に子供を作るなというその裏に、セクハラや強姦、つきまとい、舐めまわすように見つめる、といった嫌がらせや犯罪について強く否定しているようにも思えるからだ。

なぜ、敢えて多くの女たちが居たと書いたのか?おそらくは、ヘブライ社会に於いては、宗教制度で女性の弟子をとることが稀だったからであろう。にしたって、それならば「多くの男女の弟子たちが付き従った」とでも書けばいいものを…。あるいは、少々フェミニズム的な考えだが、女性に対して福音があるという意味なのだろうか。

何にせよ、ちょっと想像を働かせれば…潔癖じみたヘブライエリート(偏見です)社会に於いて、田舎の大工という屈強な、それでいて弁の立つマッチョであるところのイエスは、珍しさも相まって、女性に相当モテたと思う。

手も洗わずに飲み食いするやんちゃな気質で、イチジクの木を枯らすくだりでもわかるように、常に腹をすかせたようないかつい男で、何か作ってあげれば喜んで食べ、多くを語る…うーん、女心にグッとくる。少なくとも、言い伝えだけ守って頻繁に手を洗い、しかもそれを他人にいちいち指摘してくる男(すごく嫌だ…)よりかは器がデカく、遥かに魅力的なのは確かだ。

なのでもしかするとこの記述はごく普通に『イエスは相当モテたのである!』という、弟子による身内自慢、ほのめかしの文章かもしれない。※個人的な感想です

・16章「信じて 洗礼を受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は 罪に定められる。」

じゃあなぜ初めから洗礼をゴリ押ししなかったのか、謎である。明らかに付け足されたとわかる文章でがっかりする…新約聖書はどうも利権絡みの文章が所々にあるので、それが新興宗教っぽさを醸し出しているように個人的には思われて、せっかく盛り上がった気力を削がれる。

といっても、神のエネルギーが人間に舞下り、その人間が罪を背負って死んだからこそ、ゴルゴタの秘跡というような独特の神秘に、私のような人間も触れることが出来るわけで…

死後のイエスが敢えて洗礼を何故推奨するのかは謎だが、そんなことは人間には不明である、と潔く結論付けるのもまた、ひとつの在り方なのかなとは思う。