ハバクク書の面白いところは、三章に入ると等々に口調(文章の調子)が変化するところだ。
それまでは厳めしい、神の怒りの体現者であったのに、最終章である三章に入ると雅歌を彷彿とさせる文言も多い。
『3:17いちじくの木は花咲かず、
ぶどうの木は実らず、
オリブの木の産はむなしくなり…』
『3:19主なる神はわたしの力であって、
わたしの足を雌じかの足のようにし、
わたしに高い所を歩ませられる。』
イチジクの樹は花咲いて、鳥のさえずる時が来た、野の雌鹿にかけて私に誓ってください。…雅歌の言葉が思わず口をついて出そうになる。そして最後も面白い、私の足を女鹿のようにし…と書いてあることから、三章だけは元々女預言者が範奏付きで歌うように預言していたのではないか?
というのも、雅歌では『花嫁』が、花婿に対して『牡鹿のよう』であってくれと願う場面があるからだ。
しかしどうやら違うようだ。
聖書検索で調べてみたところ、サムエル記と詩編で『私の足を雌鹿のように』という記述がある。
1:詩編/ 018章 034節でも、私の足を雌鹿のようにする方。私を高台に立たせる。
1:サムエル記下/ 22章 34 私の足を雌鹿のようにする方/私を高台に立たせる。
何やら、雌鹿の足のようにする、という文言は『権力を得る』というニュアンスがあるようにも感じられる。『シギヨノテの調べ』というのも、果たしてどのような音楽だったのか…。
こんな風に最初から最後まで結局謎な感じが、旧約聖書の魅力でもある。