【聖書朗読】ルカによる福音書(後編14~24章)※16章『不正の富』について

16章の『16:9またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。』の箇所について、個人的に思う所があるのでその解釈を書いておく。

聖書を旧約から読んでいると、特に預言の箇所に皮肉や含みをもたせた表現が多様されていることに気付く。その時と場、そして登場人物たちを考えると…ああこれは皮肉なのかとわかったりする。

16章の不正の富についての概要を書く。ある不正な家令が居て、彼は屋敷の主人に金銭管理もすべてまかされているのをいいことに横領していたが、内部告発にあって、絶体絶命…このままでは首は確定しているから、なんとかして取引先に恩を売っておいて自分の再就職先を探そう、そのために、家の主人に借金している人たちを呼び、その負債を勝手に何割も免じてしまう。そうすることによってその相手は自分に対して恩義を感じるわけだから、彼らのうちの誰かが自分を雇ってくれるだろう…と家令は思うが、なんと家の主人は勝手に帳簿を書き換えられ、さらに貸していたはずの金すらも勝手に減額されたにも関わらず、この『やり方』を『褒めた』。そして『不正の富を用いてでも自分のために友達を作るがよい』とまで言う。さらに続くのが『小さなことに忠実な人は大きなことにも忠実だ』という文言と、極めつけのパリサイ派の嘲笑である。

ハッキリ言うとこれはイエスからの、パリサイ派への皮肉であると私は考える。そう解釈しないと、どうしてもパリサイ派がなぜ、怒るのではなく『イエスをあざ笑った』のかの意味合いが通らなくなる。

・不正な家令→この場合はパリサイ派(深読みすると総督ピラト、イエス自身も含む)

・主人→神

・負債のある人たち→マグダラのマリアのような罪びとたち

・『不正の富を用いてでも友人を作れ』→「他人を許しなさい」

・『小さなことに忠実/不正の富に忠実』→「社会的に悪くとも行為として善いこと/その逆」への『自覚を持つこと』善悪は簡単には割り切れない※そうでないとイエスの磔刑のような大罪にさえ無自覚のままに加担してしまうから

・『神と富とに兼ね仕えることはできない』→この場合はまさに(神と富とに兼ね仕えるエリート)パリサイ派への嫌味

・パリサイ派があざ笑った理由→無職のイエスが職探しをモチーフにした皮肉、嫌味をパリサイ派へ言ってきたから。

まず、この不正な家令とはパリサイ派の事である。(と同時にイエス自身でもある。)家の主人は神である。神から委託されてこの世で権限をふるっているのがパリサイ派だが、あまりにも横柄で、現実的にも金と欲にまみれているので、イエスはパリサイ派に『そのままだと、神(パリサイ派にとっては金)の事を任せてもらえなくなるよ、仕事先もなくなるよ、君らって力仕事も出来ないでしょ?乞食になるよ』と上から目線の皮肉を言っている。

そしてさらには『パリサイ派の掟に忠実であるよりも、個人の意思で、半ば掟を少し破ったとしても、他人を裁かずに周りの人を許してあげれば…キリスト教が一般化しても、君らはまだ生き残っていられるだろうね』と揶揄しているのである。

もう少し言えば『個人の意思で他人を許す行為をしたことを、神は必ず評価する』…さらには、『社会的(パリサイ派の属する社会)には悪だけど、個人的には善、という状態もある』これが『今自分が何をしているのかをはっきりと自覚してね』という意味でもあり、小さなことに忠実な人は大きなことにも忠実だから…につながる。

つまり、小さなこと(小さな不正)『社会的には悪だけど(家令が主人に背いて負債を免じてやる)個人的にはそれで助かる人もいるわけだと、自分の頭で自覚している』状態=『小さなことに忠実(小さな矛盾に気付く、時に合理性よりも矛盾を優先させたほうがいいこともある)』となる。

善悪というものはそもそも、特にこの世に於いてはどちらか一方に分けることは不可能であるので、自由意志で他人を許すほうを神は尊ぶ。そしてこのように、完全には良いとは言えないけれど、自分は今こちらを選択した…という内観意識を常に持っていろと神は言っている。

でないと大きなこと…例えばイエスの磔刑などに於いても、自分が何を選択したのかわからぬままに扇動され、善だと思い込んだことこそが最大の悪だったりする…この種の事に加担してしまうので、自分が今なにを考え、何を行っているのかに、気を付けていろという含みもあるだろう。

パリサイ派が何故これに対してあざ笑ったかというと、家令が『物乞いをするのは恥ずかしい…』というくだりに於いて、『物乞いに言われたくないよ~!』という冷笑であろう。イエスは現に、討論も兼ねてだがパリサイ派の家で頻繁に飲食しているし、そもそも働いていない。働いていない奴に、たとえ話であっても職探しの話をされたことへのあてつけだろう。

16章不正の富について、現代口語語意訳を以下に載せておく。このほうがわかりやすいと思う。これはイエスの文言。

『パリサイ派の人たちさあ…不正ばっかりやってたら
いずれ神に裁かれて
それがこの世に反映して
そろそろヘブライの権威も失墜すると思うから
現実的にも
君らパリサイ派も縮小して
(世の中キリスト教徒ばかりになるから…という含みあり)
いずれ君ら神職は失業するよ
そしたら君らって法典(聖典)の丸暗記ばっかだから
働き口なんか無いよね
というか
もうこの世界の誰も、君らに見向きもしないよね?
…そうなる前にさ
友達作っときなよ
厳格に民間人を裁いていないでさ
宮の納入金とかも
ちょっとごまかしてあげてさ
聖典に忠実でない人に対しても
寛容になりなよ
君らの団体に固執するよりか
君らからしても罪のある人であっても
聖典の外にある人であっても
仲間意識を出しておいたほうがいいよ
しかもそれを
君ら各々、
社会的地位のある君ら各々が、個人的にやってくれて構わないんだよ
なんでかって?
それが、君が神から任せられている自由意志の駆使だからだよ
そしたら神も見直してくれるって
だってさ
『自由意志で他人を許した』んだから
それを神が、見直さないわけないでしょ?
そしたらさ
厳格なユダヤ教も
なんとか生き残るんじゃないかな』
(俺のキリスト教には劣るけど…という意味も含む)

イエス自身を指して『神の子の俺ですらこんな皮肉(不正)を言って、悟らせようとしているわけで、
何もかもにただただ聞き従って清らかに居るだけじゃ、真理なんて伝わらないんだよ』という意味もあるように思われる。

さてパリサイ人たちはイエスにどう対応したか?さしずめこんなところだろう。
はあ?ユダヤ教が無くなってパリサイ派が失業する?無職のお前に言われたくないよ~
まあ、無職に職探しのたとえ話をされたら失笑するのもわかる。
パリサイ派、律法学者というのは『賢い者』であるので、この皮肉は十分通じていたと考える。
繰り返しになるが、だからこそ、イエスがパリサイ派の自分たちを
『失業者になって、力仕事はできないだろうから、君らって物乞いするしかないよね』と揶揄したことを怒りつつも
『社会的地位の無い、また利口でもない、人からの施しで(ある意味ではイエスも物乞いである)生きてる奴に言われる筋合いないんですけど~!!』
と、イエスの皮肉に対してパリサイ派は冷笑で応じたのである。

あざ笑ったというくだりは特徴的であるので、ちょっとしつこいくらいに書いたが…なんとなく通じただろうか?

もちろん私の聖書解釈は一般的には間違っているだろう。

…ただ、この数年、海外のニュース記事などを見る機会が増えて、なんというか…

馬鹿正直に読んだり、変に神秘的な意味を付け加えるその前に、まず…

『これは何の皮肉なんだろう?』『どんな意味なんだろう?』と考える癖がついた。

…あのですねえ、なんか、皮肉という一つの文化があると理解したのですよ。聖書を読んでればわかります。

逆に悪口にもとれるけど実はすごく褒めてる等の天邪鬼的表現が、おそらくは西洋(ヘブライも含む)文化の何割かを占めているのだなと私は感じます。それでいて哀しいことに、その文化圏の人ですら、誰もが皮肉を理解できるわけではなさそうなんですよね。特に純粋な思考回路の人や、丸暗記型の人は、いちいち皮肉を言うっていう非合理性を受け入れられないのではないかと感じます。

読んでいる方にはもう釈迦に説法ですが…聖書って、何故か日本ではとっても神秘~な書物ってことになってますが、皮肉表現が多用されているキツい書物なんですよね…。

不正の富、第一段階(導入)の解釈に於いては、『ああこれ皮肉だなあ…』と初見で気付けるくらいになりたかったですね私も。もちろんこの解釈はさらに数段階進めることが可能で、数段階進んだ地点に於いては何かもっと崇高な高尚な意味も含まれると思いますが…。

あとパリサイ派への皮肉でありながらも、イエスはその実…この皮肉を即座に理解するパリサイ派だからこそ、自分の意思と行動と矛盾とを『誰よりも素早く』理解できるのもまたパリサイ派であると、暗に手を差し伸べているのだと感じます。独特過ぎる友情ですので、周囲の人には(私自身を含め)理解が及ばないのかもしれませんが…。