短編【ほら吹きお銀】江戸時代イメージ小説 

『降し神様、おろし神様、どうかこの村を助けてください…』

「へェすみません、旅の方ですか?ヘェ江戸から、御山様参詣にいらしたんですか、このあたりには追剥が出ますからねえ…そうですねえ、え?いえいえとんでもない、私は村のもんです、ほうけ、ほおですか、じゃあこっちの道のほうがいくらかちっとはマシかもしれません、ここいらの道は農家のもんしか通りません」お銀は微笑みながらよそ者たちにこう言った。彼女はいかにも土地の農民と言った風の女で、街道沿いのあばら家で営まれている茶屋の片隅で江戸者らしい旅人たちと話していた。

町育ちの旅人たちは予想外に山深い街道に多少怖気づいているらしかった。お銀は頬被りにして汚れた野良着を着ていたがその身の丈に合った装束が何だか妙に実直で、きちんと背を伸ばして腹から優しく出るその麗らかな声と相まってともすれば上品にすら見えた。旅人たちはすっかり気を落ち着けてお銀の指し示す茂みの小道を見て頷いた。お銀は言った「ほれ、幾度も言うようだけんど追剥や、山のモノが出ますけえ…山のもんがどこをどう歩くのかは私ら村のもんにもわかりませんが…持ち物は隠して歩いたほうがええですよ」数人の江戸者は答えた。「なに、私のような男も居ますから大丈夫ですよ、いざとなったら稽古の成果を見せて差し上げましょう」この町人風の男の発言に女房と思しき旅装束の女が口を挟んだ。「あんたねえ、大小差してるわけでもないのに一体何で戦うのさ!出立の時に買ったあの安い小刀でかい?」隣の健脚そうな老婆も笑った。「稽古してたのは子供の頃でしょうに…でもまあ男が居れば大丈夫でしょう、道案内ありがとうねえ」彼ら一団が過ぎ去り、道案内通りに街道を外れて…街道とはいっても獣道が少し平らになっているだけだった…さらに奥の脇道へと入ってゆくのを見届けると茶屋まがいのボロ屋の女主人に一瞥もくれずにお銀は草履を脱ぎ、足音を忍ばせ、女とは思えないほどすさまじい勢いで村へと走り出した。

『この村を助けたい、供物になってください私たちの供物に…』

お銀は不思議と言えば不思議な女であった。これが江戸の都会の中に居たのであれば山出しの田舎女でしかなかっただろう。しかし農村…ことに江戸と御山を結ぶ峰々の只中の寒村に居ると彼女はとても上品に見えた。ゆっくり喋る所なのか姿勢の良さなのか声そのものに魔力があるか、旅人…特に江戸者は彼女を一目で信用した。お銀を見た町育ちの人間は山奥に自分たちの言葉のきちんと通じる人間の居るのをひどく喜び、彼女の言葉に一かけらの嘘偽りも感じず、子が自らの母を信じるのとほとんど同じ摂理でお銀を信じた。お銀もそれを自覚していた。地元の人間は特段お銀を目にかけたりしないが離れた所…江戸市中から来る人間が山奥でお銀を見つけたときの懐きようには皆驚いていた。最早魔術的ですらあるその特性を皆と共同で利用してほらを吹いているのがこのお銀という女であった。

「兄さん、来るよ、徒歩(かち)でもう二日も来たっていうからだいぶ遅いほうだね、暮れ六つには溜池のあたりで休憩するはずだよ、夜通し歩いたりする奴らじゃないよ」お銀は義兄にそう伝える…兄と呼ばれたいかにもな毛深い男は目を光らせてお銀を見返して聞いた。「女道か」「女道だよ、男道は婆も居るから勧めなかった、主人道は危ないからって言っといたよ」主人道と彼らが独自に呼びならわしているのが件の、江戸と御山とをつなぐ公的な街道である。わざと脇道に逸らせて他の旅人と接触させないようにし彼らを襲う…これがこの村に伝わる旅狩り、つまり強奪と強姦とが許容される一種の浅ましい祭りであることをお銀もわかっていた。『…この村を救いたい…』それよりも自分が救われたいというのがお銀のもう一つの本音であった…旅狩りの無い時、疫病が流行ったりして関所が封鎖されたり御用があって旅人が自由気ままに行き来出来ない時や雪や大雨で季節の悪い時…そんな時にお銀は義兄らを含めた村の若い連中の慰み者になるより他道が無かった。義兄が聞いた。「女は居るか」お銀は目を伏せたまま頷いた。あの町人の女房も今夜にはどんな目に遭うか『…おろし神様、どうかこの村を助けてください』

外はまだ昼間だというのに暗くなっていた。山陰地帯ではいつものことだ。山が全ての日光を奪ってしまう…この負の作用によって作物も育たず、村は貧困にあえいでいた。お銀は森の斜面を穿って出来た、お世辞にも立派とは言えない貧相な畑めいた土の畝を見た。いくらかの野菜を引き抜いてから今度は茂みの仕掛け罠を確認しに行く…まだ何もかかってない…義兄は山に狩りに出かけることも多かったがこれは粗野な仕事として他の村には他言無用であった。すぐ裏手は崖になっており下には川が流れている…この淵の底には幾多の江戸者たちが葬られているのだった…崖を降りてゆくのは彼らにとって造作もないことであった。と脇道から嘲笑の声が響いた。「おい崖モノ!獣の肉食って嬉しいか!獣が獣食って嬉しいか!」声に振り向くと山向こうの村からやってきた少年がこっちを見てにやにやしていた。これがお銀たち集落の者の社会的立場であるのを誰もが自覚していた。義兄が通りがかって少年をいきなりに殴りつけた。少年は小さな叫び声をあげ、唇から血を流しながら駆けて行った。義兄はお銀に向き直ると怒鳴った。「侮辱されたら絞め殺せ、このほら吹き女め」義兄はそれだけ言うとぼさぼさの髪を束ねただけの頭をくるりと回し、女道に続く小道を見つけるとそのまますたすたと歩いて行った。

真夜中の叫び声は森の土や不可思議な霧にかき消されてお銀には届かなかった。翌朝集落の崖下の渓谷に江戸者たちの死体がいつものように転がっていた。お銀はそこへ足を忍ばせてゆくと昨日会話した町人とその女房の荷物から金目の物が無いか荷物を漁った。町人は撲殺されており、女房は尻から血を噴出させ、口元は吐瀉物にまみれて息絶えていた。老婆はただ寝転んでいるように見える。彼らの着物を剥ぎ取りにかかったその時、死した女房の着物からコロンと何かが流れていった…お銀は慌ててそれを水中で掴むと日の光に透かして見た。小さな黒い紅入れ…開けてみるとえんじ色の紅が生きているかのように鮮やかにお銀の目に映った。『…朝焼けの色だ…』淵は緑色の水をたたえてお銀の投げ込んだ素裸の死者たちをあっけなく飲み込んでいった。お銀は握り締めていたその紅を自分の懐に大事に仕舞うと再び仕事に戻った。着物は川の水によって洗い清められ、物品は訳知りの旅商人や本物の山者に売るのだ。仕方のないことなのだとお銀は自分に言い聞かせていたが心の何処かで江戸者たちを憎んでもいた。どこかにすごく富んだものたちがいて、一方自分たちは割に合わない生活を強いられている。毎日白いおまんまを食っている江戸者、旅の出来る江戸者が憎らしい、税と同じで彼らのうち運の悪いものは私たちに「施し」をすべきだ。その身を以て施すべきだ。だからこのような目に遭うのも当然の報いなのだ…。そんな風にお銀は自分の所業への言い訳を自分に言い聞かせた。

あばら茶屋の老いた女主人によると、言い伝えでは、この村に宿るおろし神様は人間に乗り移って統治を行う事もあるという…。おろし神様と呼ばれる石仏のそばには清らかな泉が湧き出ていた。死体の匂いやら血の匂いの後でこの泉に来ると殊更に清らかに感じられた。お銀はその地面にひれ伏し、幾度となく繰り返してきた祈りとも願いともつかない嘆願を唱えていた。『この村を助けてください、この村を助けてください、私らは何も買えません、買えないのでぶんどる他ないんです、村の男たちもその父親もそのまた父親たちもみんなそうして生きてきたんです、でも…そのせいで私らは穢れた者として見られています、そのせいで余計どこへも行けません、どこへも行けないから…何も買えません、税も払えません、孕まされてやや子を幾人も産みました、ぜんぶ殺しました、卸し神様…』

「なあお銀さん、ずっとここに居るのか?」翌朝旅商人に着物を売ってから立ち退こうとしたお銀はこの純朴な問いにどう答えていいものか迷った。「江戸へ来なよ」そんなところへ行ったら石でも投げられるんじゃないかという想いが渦巻く中、旅商人はまた一言「…あんたは健脚そうだし、よければ一緒に商いをやらないか…?」旅商人の男は概ねお銀たちの事情を察していた。こんな山奥でどうして旅装束やら何やらを手に入れているのかについて黙っていてくれるらしかった。「はは…お銀さんは、旅人とは話すのに俺とは口をきいてくれないんだな」言葉とは裏腹にまだ若い旅商人は朗らかに微笑んでお銀を見つめていた。「なあ、兄貴たちがこわいんだろ?言われてやってるんだろ?」今、全部捨てて行けたらどんなにいいだろうか、あるいはそうしてもいいのかもしれない、第一にお銀の持ち物などたかが知れていた。捨ててゆくとか捨てられないというのは実体のないしがらみだけであった。「なあお銀、お銀さん、姐さんはさ、ずっとこうして生きていたいのか?婆さんになっても…俺は、あんたのことをいいなと前から思っていたんだよ、それともあれか、旦那が居るのか?イロでもいるのか?」お銀は反射的に首を振った。「姐さんはさ…江戸は遠くにあって自分には行けないって思ってるのかもしれないけど本当はすぐ近くなんだ、森の中が性に合ってるのかもしれない、でもこの商売ならいろんな場所を行脚出来るよ、お銀さん、本当はすぐ近くなんだ、あんたの脚ならすぐ行けるんだ」旅商人は頭をかいた。答えないお銀に対して特段苛々する様子もなく飽きもせず彼女を見つめていたが一瞬の隙をついてお銀の両肩を掴んだ。本音としては抱擁を望んでいたのにも関わらずお銀は…自分が穢れている気がして…この男と全く別の世を見ている引け目からそれを力いっぱい振り払った。旅商人は少し寂しげに言った。「…あんたが喋るのは、ほらを吹くときだけか…」それからため息をついて自分の荷物をまとめるついでに何かの袋を取り出してお銀に手渡した。袋はずしりと重く、中を覗くと見事な桃がいくつも入れてあった。「俺はあんたがほら吹きお銀なんて呼ばれてるのをこれから先もずっと黙って見ていられるほど気長じゃないんだ、また話をしに来るからそれでも食べて元気出してくれよ」

「あの桃太郎とできてんのか」義兄からの問いにお銀は首を振って桃の一つを差し出した。「あいつに何か言われたか」「言われてないよ、今度また来るっていうからほうけえって頷いただけ」義兄…亡き父がどこからか攫ってきた女の連れ子…ずんぐりしたこの義兄は振り向きざまにお銀を力いっぱい殴った。桃ごとお銀は粗末な部屋の隅にふっとんで痛みに悶えていた。「嘘をつくな!!」着物を引き剝がされて裸にされながらもお銀は呪うような気持ちでかの若い旅商人に対し心ひそかに憤っていた。『…あんな自由な人にわかるもんか…私のことがわかるもんか…』力任せの愛撫を受け、苦痛と嫌悪感に鳥肌を立てながらも実際には一言も発さずに義兄を受け入れたお銀はただ、子が出来るか否かの心配だけをしていた。桃は部屋から転げ落ち、地面に落ちてすっかりつぶれていた。もしかしたらこの男も自分の母を手籠めにされた恨みを自分たち親子…つまりもう居ない父と自分とに抱いているのかもしれない、だからこのように振舞うのかもしれないと心の片隅に思った。

嘘と真の境目は曖昧だ…お銀はたった数日で桃から芽を出した軒下の若葉をまじまじと見つめていた。それからまた幾日かして、幾人かの江戸者が凌辱されたのちに淵へと投げ込まれてから桃のうちいくつかは見る間に小さな小さな木へと成長を遂げていた。ほら吹きお銀は幾本かの桃の苗とも言うべきその生命体を、まるで母親が自分の子供にするように大事に抱え、件のおろし神の祠近くにそっと植えた。水は泉の水をそのままかけた『…これを売ればいいんじゃない?仙桃だといって売ればいいんじゃない?…おろし神様が自分に降りてきて桃を分け与えよとお告げをしていった、いえ、きっと本当におろし神様は居て、私に降りてきてくださったんだ、そして桃を手渡してくださった!…』かの旅人からもらった桃であるということは百も承知していた。冷静な一方でお銀は独特の高揚感を覚えつつ自分の物語が紡がれてゆくのを見守った。『…おろし神を降ろしたということにしようか?』いや、するも何もそうに違いない、おろし神はまさに自分に降りてきているのだ!嘘であるとわかっているのにそれを全く信じている自分が滑稽でもあった。

『自分のほらに騙されるようじゃもうあんたも終わりだね、いえいえ何を言いますやら、自分さえも騙せる嘘というのはもう、本当の事さ…』お銀は静かに微笑んでいた。

お銀は先日村の衆が強奪して淵に投げ込んだ名もなき哀れな江戸者の着物をきっちり着、いつぞやの女房のえんじ色の紅を薄く唇に乗せ、すっくと立っていた。晴やかな出で立ちの薄化粧の女が緑深い街道に姿を見せるや否や人の輪が自然と出来た。集落の者たちもほら吹きお銀のあつかましい振る舞いに半ば呆れて見て見ぬふりをしていたが確かに、彼女の発する言葉には独特の力が宿っており、その力の源となる小さな桃…お銀の育てた仙桃は光り輝いて見えるのだった。何をどうしたわけでもないのに神降しをした女…生き神お銀様の噂は瞬く間に広まり、また少しも経たないうち彼女の育てる仙桃をわざわざ江戸から買いに来るものすら出てきた…それも一人二人なんてものじゃない、日に幾人もが彼女をめがけて遠路はるばる歩いてきていた。

「神を降ろされているお銀さんという方はいらっしゃいますか?」「仙桃を欲しいのですけれども…」「手前共の子供は生まれた時から口がきけません、仏罰だとわかっとりますが仙桃を食べれば経を幾万回唱えたことになると聞き、江戸からやってきました」「生き神お銀様を拝ませてくださいお願いしますお願いします」

あまりにも参拝客が増えてゆくので村の衆も道々で訊ねられたりすることに自然と慣れてしまった。元来忌み嫌われている穢れた土地であるこの村へ、そうとも知らずに続々と足を踏み入れ藁をもすがる思いでお銀を探す旅人たちの剣幕にだんだん飲まれてしまったというのが本当のところだ。今や旅狩りの事情を知っていた近隣の村のものですらお銀をほら吹きと言うものはなく、神降しのお銀とか、生き神お銀と呼びならわすようになっていた。かくしてこの山深い地に今を生きる土着神が誕生したのである。

「軽々しく私に触るな」お銀は村の中でも江戸者らにするのと同じように振舞った。まるで自分は生まれてからずっと生き神であったと言うが如きの太々しさに、はじめのうちは義兄たちも馬鹿にしていたがついに彼女の取り巻きが現れ始めると最早慰み者にすることさえ出来なくなっていった。お銀は相反する心のうちに思った。『馬鹿どもめ…だけど私も馬鹿だよ、自分の嘘を信じてるんだからねえ…』不可思議な力が確かにお銀には宿っていたのだ。それが桃に依るものなのか泉の水によるものなのか自分の言霊によるものなのかはたまた…本当の降し神様に依るものなのかはお銀自身にすらわからなかった。おそろしいほどに短期間で実る桃を売りさばき、半年もしないうちに桃の木は集落一丸となって育てる桃畑事業へと発展した。お銀はその桃を街道の茶屋で買い手…以前だったら村のものに乱暴をされるはずの江戸者たちだった…彼らに手渡すときに必ず「降し神様の幸運がありますように」と祈ったのだった。

お銀は演じる一方で本気で祈っても居た。それを食べた者たちは足萎えがたちまちに立ち上がって歩き回ったり盲目の人間の焦点が合ったり、口のきけない子供が喋り出したりするという怪奇が生じた。…この奇跡が目前に展開されるとさすがのお銀本人も気味が悪くなって心のうちにあれこれ逡巡した。この桃は何かおかしいのではないか?あの旅商人はどこからこの桃を仕入れたのか?しかし旅商人と生きて巡り合うことはついぞなかった。それでもお銀は幸福だった。今やこの村は大金持ちだったし、共同で桃畑を営むせいもあってか義兄たち村の衆も働く喜びを覚え、悪さはしていないようだった。あばら茶屋を建て替えさせてからというもの老女主人は毎朝やってくるお銀に丁寧に頭を下げた。生き神お銀は誰言うともなしに村の長になっていた。

泉の水が少ない…このことに気付いたのはもう一年余りが経ってからだった。桃畑はこの集落だけでなく近隣区域一帯に広がっていた。最早お銀が手ずから育てた桃の数よりも猿真似して作られた桃の生産量の方が上回っていた。桃には水が要る、水というのは元来この渓谷にあふれている物だった。崖からさえ何らかの水分が常ににじみ出ていたのだ…だがこの一年で泉の水は半分に減り、人を簡単に飲み込む緑の淵すら枯れかかっていた。あまりにもすべてが早く展開し、この自然枯渇事態に対処出来るものは一人も無かった。お銀は幾度か神の名を騙って本気で他の集落の者のところへも赴いて頭を下げた。「おろし神様も私の中で申しております、水が足りません、桃を作るのをやめてください、分け前はあげます、このままでは山魚も捕れなくなります」だが元来穢れた土地の人間ということもあってか近隣の村々の人間はお銀の願いを鼻で笑った。付き添いの義兄もお銀に加勢して言った。「生き神お銀が頭を下げてるんだぞ!」しかしこうなってくると対等な会話にすらならなかった。お銀は相変わらず江戸者…つまりよそ者には通用するが同胞には憎まれて、腹を割った話し合いの席では軽んじられていたのである。それも別の村の者との話し合いというのは元々が、人間同士の会話ではなかった。人間と、人間になりそこないの崖モノとの会話…お銀は呟いた。お銀の血筋すべての恨みがこもっていたのかもしれない。

「天罰が下りますよ」

生き神お銀の言葉通りに日照りが起こった。泉は消失し、淵は生臭い匂いを発しながらも細々と小便のような水を流していた…この匂いの元は山魚と数多の死骸であった。その多くは骨になってもまだ髪を生やしており、御山を見つめて恨めしげに渓谷の至る所に転がっている江戸者であった。…当然ながら桃の木も枯れ果てていた。お銀はそれでも日々街道に出ては数の減った信者たちから布施を得て義兄たちを食わせ、余った金で井戸を掘ってなんとかしのいでいた。この崖の村に火が放たれたのはそんな夜の事である、近隣の村々の者が一斉に、暴徒の如く騒ぎ立てた。

「ほら吹きお銀を出せ!」「もともとはお前が仙桃などと言うものを皆に広めたからこうなったのだ」「俺はこいつに畑をやめろと言われたが断った、するとこいつは天罰が下るとほざきやがった!」「干ばつが来たのはお前のせいだろ、お銀、お前に神様が降りているのを頑なに認めるのであればこの水不足もお前のせいだ」「俺たちだって困っていたから桃を作ったんだ、それはお前たちが自分らの畑が少ないのを他人のせいにして、よそ様に狼藉を働いているその噂のせいで俺たちまで変な目で見られるから貧しかったんだ、この土地の名を言うと嫁の貰い手も無いんだぞ、それはお前たちのせいだ」「もし神様を宿しているというのならば雨を降らせ、この川を元通りにしてみろ!!」

それは桃栽培をやめなければ実現できないとお銀は言おうとしたがもう口が動かなかった。あのえんじ色の紅はもう底をつき、とっくに新しい別の紅を買って塗っていたがその紅は殴られた拍子に頬に一筋の線を描いていた。今まで散々江戸者を虐げてきた屈強の義兄や村の男衆も多勢に無勢でそれぞれに木に括られて暴行を受け、村の者には既に誰も言葉を発せる者は居なかった。もうすぐ朝焼けが来る…「こいつらは畜生と同じだ」村の粗末な家々も街道の茶屋も近隣の者どもによって焼かれていた。お銀は鉈で首を切り落とされかけたがいくばかの骨が引っかかって辛うじて首と胴体とが繋がっていた…想像を絶する激痛の中お銀の肉体は絶命した。しかし生き神となったお銀には死というものがそこまで簡単に終わるものでないことくらい自覚していた。『私は死ねない…この程度では魂が死ぬことが出来ない…』真っ赤な朝焼けの直後に唐突に豪雨が降り注いだのを受けて近隣の者どもは一転して震えあがった。

「…降し神様…」「やっぱり生き神様だったんか…」「お前が殺すって言ったんだろ」「祟りが起こるかもしれない」暴虐を行った誰もが怖がって首のもげかけたお銀の死体には近づかずに神殺しの責任逃れの口論をしていた。傍らで骸となったお銀はそれをしばらくの間聞いていた。豪雨は丸十日間休みなく降り注いだ。

死ぬことの出来ないお銀の霊魂は痛む身体を写し絵のように纏いながら、最早誰も居なくなった暗い村を薄い夜霧…幽霊となってさ迷い歩いていた。首に紅よりももっと深い赤い輪を湛えたお銀はえんじ色の着物を着ているかのようでもあった。死者の世は常夜で、時たま血潮のような朝焼けが広がったがすぐに夜になってしまうのだった。お銀は朱に染まった着物のままで村々の戸口を叩いた。「もう桃づくりは止めてください、このままでは川が枯れてしまいます、日照りで枯れたのではないのです、私が悪うございました、夜分にすみませんごめんください、ごめんください、誰か話を聞いてください」切られかかった首元からはひゅうひゅうと息が漏れたが霊魂となったお銀は夜の訪問を止めなかった。おろし神は居るのだとお銀はようやく理解していたのだ。、このように霊体として尚自分は神に罰せられており、このけじめをつけない限りは眠ることが許されないのを悟っていた。近隣の村々の誰も霊を感知せず、あるいは幽霊となったお銀の気配を察してか皆頑なに戸を閉ざして夜を耐えているようだった。相変わらず桃は植わっており、雨が止むとすぐに泉は枯れた。

…死者から剥ぎ取った着物に血が染みて重くて重くて仕方がない、いっそ脱いでしまおうか?お銀がそんな事を思っている時に小さな呻きが聞こえた。「誰かあ…助けて…助けてください…」暗い緑の淵の方から聞こえるこの声に、早霊体となって久しいお銀は相変わらず首に切り傷を負ったまま、ぐらぐら揺れる頭で崖から身を乗り出して渓谷を覗いた。そこに居たのはかつてお銀たちが殺した江戸者たちであった。お銀の胸は騒いだ…素裸の彼らは真っ赤な着物姿のお銀を認めて手を伸ばしてきていた。亡者たちに憑りつかれるのを本能的に厭う気持ちの出てきたお銀は、ただひたすらに触るなと念じた。義兄に念じたように、旅商人にも表面上で念じたように触るなと念じていた…と同時にこの常夜の国でも自分の威光が通用するかどうか試したくもなっていた。『いっそ本当の神になろうか?現世ではあれは半分嘘だったけれども今度は本当に神になれるんじゃない?こうして私が罰を受けているという事自体がおかしな話だよ、みんなのせいであんな暮らしをしてたってのに冗談じゃない、今、私のほらが通じるかやってみようかな…へェ造作もないことよ、私は自分を守るために嘘をつかなきゃならないんだ』お銀は言った。「案ずるな、静まりなさい」首元からひゅうひゅうと息が漏れたがお銀の落ち着いた声は周囲に響き渡った。霊たちは耳をそばだてお銀の言葉を聞いた。「私はこの土地の神である、軽々しく触るな」

その時に何が起こったのかはお銀本人にもわからなかった。裸の亡者たちはお銀にひれ伏して懇願した。「御山に参詣に行く途中で追剥共にやられたのです…痛くて痛くて…でも御山を詣でるまでは死ねません…どうか連れて行ってください…」紅のとれかかったお銀の唇は勝手に動き、こう返答した。「ほおけぇ、さよか、わかった、連れてゆくぞ、歩けないものは私に掴まれ、一度に大勢は出来ないが順番に連れてゆく」かくして常夜の真っ暗闇での亡者たちの御山参りが始まったのである。本人のお銀には何が何だかわからぬままに自らの身を呈して酷い悪臭のする遺骸を幾体も幾体も背負った。その時にとうとうお銀は全てを後悔した。確かに今、自分は神なのだとお銀は直感していたのだ。おろし神というのは正真正銘本当に居たのだ…神だと発言したその瞬間に神は降り、それを受け入れた自分は神としての役目を果たさなければならないのだ…。

「この着物!!!あたしんだよ!!!こんなに汚しやがって!!!」唐突に、一人の女と思しき乱れ髪の骸骨が暗闇の中わなないて淵から上がって来た。お銀は何か言い訳を言おうと思案していたが口は勝手にしゃべり声を発した、それは神の声であった…「そうでしたか、わたくし共が盗ったのでございます、血で汚してしまいましたが今お返しします」そしてお銀の霊魂の身体はひとりでに着物を脱ぎ、濡れて水草の生えた骸骨に着せてやったのだった。血の到底落ちないことを悟ってか乱れ髪の骸骨は声もなく泣いていた。おろし神は微笑むと頭を垂れて赦しを請うた。自分たちの生きざま、その浅ましさと理由とを述べた。当のお銀はただ茫然と自分の口が自分の行いをあけすけに語るのを聞いていたのだった。

御山までの道のりというのはこの繰り返しであった。本物のおろし神となったお銀はかつて殺した者たちに罵られ、呪われながらも彼らを引きずって信じられないほど長い峰々を、昔淵に投げ捨てた死骸と同じ赤裸で歩いた…絶え間ない罵倒に降し神そのものとなった裸のお銀は耳を傾けていた。「あんたあんときの人か!信じてたのに…」「裏で手引きしてたんだな、わざと横道に入らせて…みんなぐるだったんだな、許せない!」神に成るということは誰よりも遜って今までの罪を認め、尚且つ誰も責めない、言い訳もせずに光へと他人を引っ張ってゆく事なのだとお銀は徐々に嚙み締めた。神に等なるのではなかったと悔やんだが何もかもが遅かった。お銀は死後の地獄を神として味わっていた。

途方もない夜の峰々を裸のままで死者を担ぎながら越え、ついに白く光る霊峰につくとそこだけ昼の光が満ち溢れていた。御山だけは常夜と現世とが合致している空間らしく生者と思しき旅姿の人々を見かけたりもした。暁光が白い山を真っ赤に染めており、背負った骸骨のうち一人が声を立てた、それはいつぞやの町人の女房であった。

「あああ、紅の色!綺麗だねえ…」お銀は女房の言葉に本心から答えた。「あなたの紅を盗りました、あなたの死んだ後に、そしてずっとつけていました、あれほど綺麗なえんじ色の紅は…ほかにも紅を買いましたがついぞ目にかかれませんでした、毎日使っていました、ごめんなさい」骸骨と化した女房は道中で暴言し尽くしておおかた気持ちが収まった様子で朗らかに言った。「…ふふ、あれ気に入ったの?あれはねえ、江戸の有名な大店で買ったんだよ、だけどあんたにはもちっと別の色も似あうと思うなあ」その時にふわりと背中が軽くなるのをお銀は感じて振り向いた。さっきまで腐った肉をたらしていた骸骨の女房は今や…前に山深い街道で出会ったときと同じ旅装束を身に着けた健康そうな女に戻っていたのだ。生者と見分けのつかぬ女房は笑った。「…殺されてから、うちの人、どっか行っちまってさあ、死んだあとあの人が手を振ってどっか行っちまうのをあたし、見てたんだよ、でも動けなくて…何処へも行けなくてさあ…」お銀は答えた。「あの方の小刀も盗りました」「いいよお、もういいよ、あたし思うんだけどさあ、うちの人、はじめっからもういいよって思って、あんたらのこと、許してたのかもしれないねえ、だからさっさと極楽浄土へ…行っちまったのかなってね、けどそれを思うとあたし、自分は痛くてつらいのに何でこんな目に遭わなきゃならないのかっていう想いがとまらなくってねえ」

生きた魂の女房は白銀に光る山肌で静かに泣いていた。紅のような赤い朝日が女たちの顔を赤く照らしていた。「あんたも」女房は言った。「こんな風に思いながら生きてたんだろうねえ…」

次の瞬間に女房は幾重もの虹となって消えていた。それを目の当たりにした他の亡者たちも光り輝く御山の白い雪の上で手を合わせてお銀もろともすべてを拝みだした。お銀は苦しくなってかつて殺した者どもに絞り出すように言った。「私は、ただのほら吹きお銀です、本当にそうなんです、このことすらおろし神様が言わせているんです」それでも亡者たちは彼女を拝むのをやめなかった。すぐ後ろを生者の参詣人が列を成して行き過ぎ、途中の幾人かはこちらに気が付いた様子で手を振った。お銀も裸のまま手を振り返した…向こうにはただの人影としか見えていないらしい。「今まであなた方江戸者を恨んでいました、贅沢な暮らしをしている人を恨んでいました、恨みを晴らすのと分け前欲しさに追剥をしていました、ごめんなさい、どうやったら人を恨まずに生きてゆけるのかわからなかったんです、今ですらそうなんです」お銀が目をあげると骸骨たちは皆生前の姿になって微笑んでおり、その一瞬後には消えていた。骸姿のお銀だけがその場に取り残されていた。

神となったお銀…着るものすら無く首の切り傷はそのままの醜い死骸の姿であるお銀が峰々から御山へこの往復労働を一体どのくらいの長い間やったのかは定かではない。かつて集落の者に加担して淵に落とした哀れな江戸者たちすべてを御山へと運んでゆく死後の参詣を、生者たちの時間になぞらえたらどのくらいの年月を要して成し得たかは誰にもわからなかった。生前に騙して間接的に殺した者どもすべてを御山に送り届けた事を悟ると今度は自分の一族が手を下したであろう打ち捨てられた死者や、最早お銀の血筋とも何の縁もゆかりもないと思われるただの行き倒れやその他のあまたの地縛霊とも言うべき霊魂たちを深い山の淵や崖下、永遠と続くような茂みから、彼らの発する呻きを漏らさずに聴き、探し出しては霊を一つずつ拾い上げて背中に乗せた。この労働の度にお銀の傷は少しずつ癒えてゆくのだった。ある時、生きていたころには見たことも無いような装束の女の亡者がお銀の差し伸べる手に縋り、御山に着くとお銀への感謝と憐みを込めてその奇妙な衣類をお銀に着せてくれた。「…せめてこれがあなたを暖めてくれますように」祈りともつかないその言葉にお銀は生まれて初めて親切を知った。

最早すべてが遅すぎるように思われたがそれでも…本当は、現世というものですら、いがみ合う人間の世というものですら本当は互いの親愛に満ち溢れていたのかもしれない…お銀は女が虹になって消えてしまうと声をあげて一人泣いたのだった。

まるで黒い器に入った紅のように真っ赤な月の晩であった。鬱蒼とした常夜の渓谷にお銀は今日も呼びかけ、枯れた泉の傍で迷っている魂たちを探していた。傷はすっかりふさがってその声には生前同様の落ち着きと張りがあった。『…誰かいるか、誰かいるか、一人残らず御山へと連れてゆくぞ、私は大罪人だが土地の神である、過ちをすべて引き受ける、誰かいないか、誰かいないか…』ついに一人の亡者も居なくなった淵にはふたたび水が満ちるのをお銀は見ていた。その途端、小さな紅のようだった赤い月がどんどん大きくなりその円は見る見るうちに大きく広がり周囲を飲み込んだ…空は月の一点から幕を剥がしたように明るく開けたのだった。紅い月だとばかり思っていたそれが現世の朝焼けを映していた常夜の小さな窓であることに気が付いたお銀は思わず声なき声をあげて立ちすくみ、赤い光に飲まれるのを直感して…お銀は直視するのが恐ろしいものを見るかのように手で目を覆い枯れた泉へ蹲った。

しばらく後に鳥の鳴き声が聞こえ、お銀は濡れた顔をはっとあげた。朝という時空間に今自分の居ることをお銀は改めて考える余裕も無かった。いつの間にか泉は昔のように湧き出でていた…新鮮な生きた水の中から身を乗り出し、雫をしたたらせたまま辺りを見回すが村は朽ち果てており、大昔に降し神と呼びならわしていた石仏も苔むして原型を留めていなかった。現世と思しき早朝の山中に人間は居なかったが渓谷や川はすっかり清められて山魚が楽し気に泳いでいるのをお銀は神の目で見て取ると安堵のため息をついた。自分たちの汚した川をすっかり綺麗に出来たことが嬉しくてお銀は心からの笑みを浮かべた。生きていたころよりもずっと幸福であった。神の目は広がって峰々の細部まで見渡すことが出来た…。

ふと見ると今まで散々に死骸を流してきたこの渓谷の下流に薄紅色の木の実が成っているではないか…お銀は文字通りそこへ飛翔していった。近づくとそれは見事な桃であった。お銀は遠い恋を思い出して呟いた。

「あの人…ここから桃をとってきたのか…この桃はもともと、私たちの殺したものたちの血が入っていたのか…あの人もそうと知らずに私に渡し、私も、自分では食べもしないで売りさばいていたのか…でも、今はすっかり清らかになっていて本当に美味しそう」

お銀はその桃の木に頬ずりし、始まる事もなく終わってしまった静かな恋を思ってしばし祈っていた。どんな願をかけたわけでもなくただただ喜びながら祈るお銀は桃をひとつ捥いだ。それは子供の頭位大きな桃で簡単に木という胴体から離れた。果肉からはあの若き旅商人の匂いがほのかに香った。お銀はそれを一口、また一口と齧った。涙が一筋また一筋と流れ落ち、桃の果汁と相まってお銀の口の中に流れ込んだ。愛おしくて憎い、言葉に出来ぬ情の味が口いっぱいに広がり、これほどまでに生きていたことは今まで無かったことをお銀は朗らかな気持ちで少し悔やんだ。あの時に何故その場で食べなかったのだろう?何故彼からの抱擁を許さなかったのだろう?泣き笑いをしながら悔やみ、泣きながら桃を食んだ。生者と同じようにそれを飲み込む間にどれだけの時間が経過したのかお銀には知る由もない事であった。食べ終えると唐突にまぶたを開けていられなくなり淵の岸辺の桃の木のそばに倒れこむと涼しい朝の日に満ちる山の風を感じながら静かに目を瞑った。かくして神となったほら吹きお銀は、永眠したのである。