自分軸『自分が古今東西老若男女いかなる個人であっても、良いと思える選択肢』(戦争とコロナについての主観)

『自分が古今東西老若男女いかなる個人であっても、良いと思える選択肢』をしようと最近考え、【社会的、あるいは物理的外部に対して敢えて何かを実践する】際には、それを自分軸にしている。

※(言うまでもなく私は凡人なので趣味や自発的な欲に関しては除外している。ただ、創作というものが普遍性を持った場合には、それは宗教的な地点にまで到達可能なのだと思っているが…。)

さて、私がかれこれ5年以上?ゴミ拾いをしているのはまさにこの理由からで、古今東西老若男女誰が行おうと、良いと思える普遍性を兼ねた行為だから続けている。

花壇も然り…とはいえ花壇は、体感としてはゴミ拾い以上に周囲の人に喜ばれるが、自然原理主義的観点から見れば立派な自然破壊行為でもあるので実はあまり普遍性は無いようにも思う。しかし不思議なのは、人間は植物が好きという普遍性である。庭の場合は覗かれると不愉快だが(すでにここに個の持つ我欲が生じている)、花壇は解放されているので共感が生じやすい。

このような普遍性のある行為…仮にこれを善と呼ぶならば、善を選択する機会、善を実行する機会はあまり無いようにも思える。

残念ながら意識して行える行為としては、普遍的な善の割合は、個人の活動のうちの二割にも満たない気がする。衣食住の確保という時点で八割の悪を行わざるを得ない。これが人間(動物)の限界だ。

なので改めて、ウクライナやロシアや、ウクライナの裏に居るイスラエルやアメリカについて、どの国が正義だとか言うのは『自分が古今東西老若男女いかなる個人であっても、良いと思える選択肢』から全く外れているので、これを自分の指針にしている私にとっては募金なんてもってのほかである。

ウクライナについて掘り下げてゆくと、そもそも2014年にクーデターが起きており、おかしな団体が政権を乗っ取った事実がある。じゃあなぜそんな過激派が生じたのかというと、おそらくは1930年代のホロドモール、スターリンによるウクライナ地域人工飢餓にまで遡ることになるのだろう。じゃあソ連…つまりロシアが悪なのかというとそうではないだろう。じゃあ武力行使を是認するのかというとそうでもない。そうでもないから私はどこの国も支援しないし心理的にも全く加担しないだけだ。

個人的は話になるが、ロシア人=悪、みたいなのを見聞きするとぞっとする。私は父経由でスラブ人と思われる血筋が入っているので、思い込みによる特定の人種叩きみたいな現象について本当に『自分が古今東西老若男女いかなる個人であっても、良いと思える選択肢』と全く相反するとまさに実感している。断っておくが親ロシアとかプーチン支持ではない。トランプ信者でもない。心境的には…第二次世界大戦の、ユダヤ人の血筋が実は少し混ざっているドイツ人(たぶん大勢居たと思う)、みたいな感じかもしれない。

この種の問題に関して私が言いたのは、『自分がロシア人だったら』『自分がウクライナ人だったら』『自分が何人であっても』良いと思える心理的な軸を多くの人に持っていてもらいたいという事だ。そしてその軸は、残念ながら表面上での大勢の人との一体感や高揚感とは真逆のものである。

正義感とは真逆のものに普遍性(善)が宿っている、『自分が古今東西老若男女いかなる個人であっても、良いと思える選択肢』というものには、表面的な正義感は皆無なのである。

だからすごく地味だし、淡々としているし、何か選択したり関与したりする興奮というものはまるで無いので、冷淡な印象を与えることにもなる。加担しないという事はこういった味気無さが伴う。多くの人と体感的に意気投合して悪をやっつけるといったストーリー性も皆無である。

『自分が古今東西老若男女いかなる個人であっても、良いと思える選択肢』というものは、楽しさ(あるいは苦しさ)、熱狂、人間同士の一体感とは真逆のものである。

しかし悪とは何か?答えは簡単だ『自分が古今東西老若男女いかなる個人であっても、良いと思える選択肢』と全く相反する思想、選択に他ならない…と私個人は考える。

コロナに関してもそうだ。確かに欧米の高齢者の死亡率はかなりこの新型(最早旧型だが…)ウイルスというものが特定の人種(あるいは肥満率)の人にとっては大打撃だったのは事実のように思われる。ワクチンについて思うのは、仮に【個々人に対してそれぞれ異なる調合の薬を】【打つかどうかは個々人の選択を尊重した上で】【副作用で死亡したりした場合の手当や生命についての宗教的尊重】を行うのであれば処方しても【よい】と思う。

しかし打たない人について、そしてウイルスそのものについて【悪】という報道をした時点で善とは真逆の様相を呈している。

何かの存在を完全悪と見なした時点で『自分が古今東西老若男女いかなる個人であっても、良いと思える選択肢』から外れる。自分が『打つ人』であっても『打たない人』であっても思想的に許される代物でなければ普遍性に欠ける。だから一度も打たないしこれからも打たないだろう。

疫病や死、自分の活動が他人を害する事になるという思想もあるが…しかしそれは生きている以上当たり前のことだと私は思う。

また個人的な話になるが私も足が悪い、それは大規模的な視点から考えれば、足腰の丈夫な人に潜在的に自分の骨肉が奪い取られたとも言える。だからといってそれを責める気にはならない。

それが生存競争だからだ。

そして最も言いたいのは、自分が『足の悪い人』であっても『足腰の強い人』であっても恨みっこなしで互いに明るく楽しく過ごしていた方が両者のためになる、両者の健康のためになるととても深く実感しているという事。

だから風邪を誰にうつされたかなんていうのは愚の骨頂で、死にそうな老人も健康な若者も…自分がそのどちらであっても明るく楽しく過ごしていた方が両者のためになるし両方の健康にとっても良い、これは普遍的な健康法だと私は思う。

マスクについても、自分がいかなる人間…いかなる地域に住む人間であってもいいと思える選択肢からはマスク着用は外れるので、去年からノーマスクである。熱帯地域の人間がマスクなどつけていられるだろうか?人は口から熱気を吐き出して体温を下げる。そしてここは現に亜熱帯地域である。多くの人と苦しみを共感したい気持ちを残念ながら、普遍性という思想に於いて私は持っていないのでマスクはつけない。

しかし、さらに付け足すべきは、『いかなる思想を持つ人とも穏やかに交流する事』だと自負している。

こうしてまとめると『自分が古今東西老若男女いかなる個人であっても、良いと思える選択肢』というものは時に反社会的にすら見える。なぜなら社会の根底に流れる文化意識というものこそが、普遍性と真逆だからだ。特定の国や地域への愛着、連帯感、そういったものとこの指針は真逆である。

このように、いかにもな左脳的理論としては私の自分軸もここで行き詰まる。

だからネットや文字だけのSNSなんかではいつまでも左脳しか使わないので、二極構造のままお互いにやり合うことになる。

しかし現実は違う。

現実には『いかなる思想を持つ人とも穏やかに交流する事』は十分に可能だ。

私はこれを、自分と全く思想の異なる人たちから教えてもらった。むしろ考えの異なる人から、こんなにもお互いに喜びあえるのだと教えてもらった。だからコロナを怖がっている高齢者という存在に私は感謝している。

なので全く以て、自分と異なる思想の人を否定しているわけではない。

ポイ捨てマスクももう延べ1000枚くらい拾っているがマスク着用する人を否定したいわけではない。

単に苦しみによる連帯感を拒否しているだけである。

その代わり、喜びによる個人的な共感を求めている。

朗読や絵画という創作というものが『いかなる人間をも否定しない』、普遍的な喜びを発生させるものにたどり着いたならば、その地点で私はどんな人とも語り合えるだろう。

そこを個人的に目指している。

言葉にするとやたらと崇高そうだが…実は喜びの個人的共感は案外普通に達成できるものだ。

その最たるものが花壇である。

よってゴミ拾いや花壇という『自分が古今東西老若男女いかなる個人であっても、良いと思える選択肢』という自分軸を実行中に強く感じたので、これからもやり続ける次第である。