散文詩【音も無く静かに…】

音も無く静かに…音楽家は高台まで歩いてゆくと夕暮れの景色全体を両手に包んだ。この景色の中に、まさに自分の思い描いていた理想の人が居る事を音楽家は心の奥底で静かに祝福していた。それにしても不思議なのは、これほどの精神的作用を敢えて、手に包み込むという仕草にまで変換しているのにも関わらず、この動作には何の効果音も伴わない事だった…音も無く静かに祝福を終えると音楽家は思いを巡らせた。母親が息を引き取る時も音も無く静かに全てが移行した、長年住んだ家を離れる時、あの断腸の思いの時でさえ自分の心に対し、実質的な調べは伴わなかった…たったの一音さえも。こうして想い人を考えるその時でさえ周囲は無音であった、いや、厳密に言うとそこには絶えず虫の音が響き、真冬でさえ菌類の伴奏が確かに在った…にもかかわらず人生の肝心な場面ではいつも音も無く静かに全てが進んでゆくのを歯がゆい気持ちで感じても居た。嗚咽も歓喜も結局は無音なのだ…彼女は、自分の想いを音楽という三次元上の共鳴にすることを生来好んでいたが、それでもこんな風に戸惑うのだった、音楽というものが本質的に…愛がそうであるように『本当であればあるほど』、それらはすべからく、音もなく静かなのであった…。