生命は常に闘っている

植物を育てている時に思うのは、雑草や虫などを払いのけすぎると植物は強くならないという事だ、特に雑草。意外なんだけどメインの植物の周りに雑草がちょっとずつ生えているほうが土壌内での不可思議の働きの為であろう、何故か植物が強くなるという現象が起こった。庭をやり始めたばかりのころは雑草に過敏になってどんどん抜いていたのだが、試しに『雑草は二割程度生やしておく』ようにしたところ、如実に枯れにくくなった。

人間も、ありとあらゆる生命体も、一割ぐらいは体内に雑菌やらウイルスやら…全くよろしくないものを宿しているという。
おそらくその、全くよろしくないものに対する抗体というか『闘う姿勢』そのものが、生命個体の健康維持に欠かせないのだろう、それが他者と個体を分かつ決定的な事象なのかもしれないと感じている。

人から感謝されて嬉しいという喜びの極致や、自分の目標に向かって突き進む推進力を感じているこの状態を健康と呼ぶのであれば、全くよろしくない他者…私にとっては件の待ち伏せ兼つきまとい壮年者なんかは、闘うべき他者なのかもしれないし、どんな人間にも『敵』は一割居るという、どんな人間にもその人を嫌う者は二割程度居るという、それが他人であるのか、つきまといであるのか、ウイルスであるのかはさておき、誰にでも敵は居ていいのだ。

私自身特定人物の『敵』である。『加害者』である。私はこの事に関して実は大変いい経験をしたと感じている。私ですら加害者になり得るのだ。ウイルスもそんな感じでこの地球に漂っているのかもしれないと感じる。自分が居るだけで誰かに損害を及ぼす。自分が居る事で他者と喜びを分かち合う事が嬉しいと感じるのにも関わらず、自分の振る舞いに傷つく人が宿命的に居る事…私も他人を傷つけているし、これからも傷つけてしまうと思う、私が存在しているだけで誰かの領土を奪っている状態が生じているし、私はそれを悪いとも思って居ない。

でも、なるべくすべてを含めた存在と共存していきたいと思って居る事も確かだ。

庭や花壇にも一切殺菌行為や除虫剤は使用していないし、これからも使わない。コガネムシなんかも土を耕して年に一度調節すれば面白いほどだんだんと減ってゆく。でも闇雲に雑菌を殺したりすると一気にそれら、あるいはそういったものを食べる微生物が急増し、またそれらの死骸によりさらに大きい虫が寄ってきて…みんなで土中の糖分濃度調節の為にせっせと食むのだが、それが人間の目には『虫が湧いた』というおぞましい現象にしか感じられないのだ。
ウイルス現象に関してもこんな感じだろうと思う。
目に見えない菌類を含む膨大な生命体の連鎖によって我々は生きているだけだ。
我々の一部は元来、『敵』である。
『敵』を自らの一部として我々生命体は自身を構成している。
敵がゼロの状態を維持しようとすること自体が馬鹿げているし、仮にいくら薬がその場で効いたとしても、それが幾代も続いたら我々は確実に『弱くなる』…当たり前だ、『敵と戦っていない』のだから健康状態は悪くなるに決まっている。
これは植物を見ていればわかる事。特に越冬する植物はある程度強くしてやらないといけない。人間も同様ではないかと思う。

生命同士は互いの敵と共存していくことだけで命を繋いできた。
私も、つきまとわれるからといってそのつきまとい野郎を殲滅しないでやるの同様、ウイルスも、雑菌も、雑草も、共存したほうが互いの為になると思って居る。
概念上の敵が居なくとも、生命は常に闘っているし、私はその状態を肯定する。