PC急逝/伊豆大島紀行その2

あかっぱげ という赤い溶岩のところ

いきなりだが…植物をやっていると、土の状態が気になるもので、伊豆大島は溶岩の島だというし、40年くらい前の噴火では鉄を含んだ大量の溶岩(赤い溶岩)が噴出し、島に降り注いだらしい。

しかし、鉄や塩(海風)は元来、植物にはあまり良くないはずでは?

にもかかわらず伊豆大島の椿や苔や他の植物たちは楽し気に健康に、わさわさ生えていた…これが生命の神秘である。

さて話は戻って…創作用PCが駄目になるということは、その間YouTubeにも投稿できないわけで、私はYouTubeというものは『自分も参加できるから楽しい』ものだと認識しているので、これができないとなると一気に寂しくなってしまった。

昔からテレビに全く興味がわかないのはまさにこの原理で、どんなにこちらがテレビ業界?を熱心に見ても私自身は発信できないということが、つまらなさの理由だった、流行とかに興味ないのもそのせい。

ひとなつこい猫

YouTubeに参加できない寂しさを抱えたまま港町を歩いたが…伊豆大島って人っ子一人歩いていないのですね。

いや本当に人が居ないんです。

そのくせ都内なので道はしっかり舗装されているのですよ…私は、はっきり言いますが、生まれて初めて『人が歩いていなくて寂しい』と感じた、39年も生きてて初めて、赤の他人の居ない寂しさを身に染みて感じました。

私は、生まれてからこのかた、寂しいって思った事なんか無かったのだ!!

お店に行けば人は居るのだが、通りに誰も歩いていないというだけで、こんなに寂しくなるとは…。

あとこれは全く個人的に思っている事で、強要するつもりは毛頭ないのだが…人と人が対面したときに飛沫が飛び交う原理、この飛沫の中にその人の思惟や到達点が含まれているように感じられる、だから教えを請いたい時などはやはり対面して直に物事を聴いたほうが、知恵や知識や概念を唾液飛沫によって文字通り授けられるような気がする。

さて、人が誰も居ないというのは、自分が誰でもなくなるということで、極端な話、私以外に誰も居なくなったとしたら、私はもう女でも男でもなく、ヒトでも猫でもない、真に空の存在になるのだろう、しかしそれはこの上なく苦痛で、ヒトとして自分の進捗を進めることすら出来ないというのは、刑務所で極刑を受けるのと同等に虚しいことだろう。

ようやく…自分という物は本質的に他者によって成り立っているのだと痛感した。

ここ数年、大多数の人と気が合わないという現象すら、私という存在を感じさせてくれる認識力として作用しているわけで、対人関係というものはつまり、どのような場合であれ、自分を補填してくれる。

伊豆大島という場所は調べてみると昔は流刑地で、島流しというのも刑罰のひとつだった。

帰りの小型飛行機で本土、もとい我が関東平野が見えたとき、江の島が見えたとき、横浜が見えたとき、首都高やら都内のビル群が見えたとき、遠く千葉までもが手の上に収まるように見えたとき、私は思いましたよ。

これが私自身なのだと。

これが、本当の私なのだと。

要するにこの全部が私を構成/再構成しているのだと、性根から理解しました。

こんな歳になるまでこのことがわからなかったのです。

感謝とも悔恨ともつかない涙が頬を伝いました、泣いていました。

今までも飛行機から日本国土に戻ってくるなんてことはあったにもかかわらず、むしろ閉じ込められるような嫌な感じだった、その時の私はあまりに自己認識が小さすぎた。

悲しいのは、私を構成するところであるすべてに対して、一体どうやって大規模的な意味での愛の念を伝えればよいのか見当もつかないという事です。

愛し方がわからないのです。

こういう時、何か出来る頭脳+体力があればいいのだが…しかしその頭脳や体力というのも結局比較によってしか認識できない程度のものに過ぎないわけで…どうしたらいいのだろう?

朗読の時も、どの役を読みたいとかいうのは無くて、全部のキャラクターを読みたい気持ちがあって、それは詰まるところ、この世のすべてが自分自身であったという発見の体現に他ならないのですよ。

ゴミ拾いでもしながら、新PC到着を待ちますか…。