散文詩【喋れない子】

学生だった頃の話なんだけど、クラスに全く喋らない女の子が居たのね。喋らないと言うよりも喋れない子、あたしも無口な方だけどそんなの比較にならないほど言葉はおろか発声というものをしない子がいた。当時まだ十代だったはずなんだけど五十代か六十代くらいの、もうおばさんというかおばあさんみたいな子でね、若いんだけど中年太りみたいにずんぐりしてて髪の毛もただ雑然と束ねてるだけ。おそらく入学と同時に喋らない日が続いて、それが内気さと鈍さによりどんどん強固なものになっていってしまって、いつしか本人ですら学校での発声の仕方を忘れてしまった…そんな感じだった。授業中もその子だけは教師たちも当てないように避けていたんじゃないかな?なにしろ喋っているところを見たことが無いんだ。プールも全部休んでたよ、あたしもだけど。そのせいかあたしは、その子の事がなんとなく他人事とは思えなくって、発語出来なくなった人間が、それでも自分の縄張りだと思える家庭やバイト先なんかでは案外普通に喋ってるんだろうなあと横目で見て察していた。たまに噂で、その子が喋ってるところを見た!なんて言ってるのを聞くとあたしは、なんだか胸がざわついて仕方なかった。やらないで居ることが増えると人間って何もやれなくなっちゃうもので、一度あっち側に行っちゃったらもう常人の輪には簡単には戻ってこれない仕組みを思うと、空恐ろしくもあった。あたしも喋るのは苦手だったし、学校で一日発声しないなんていうのもザラだった。ただそれでもあっち側に行っちゃ駄目だと自戒はしてたから、閉じこもらないようにしていたけど、外に居ても人間って引きこもりになってしまうよなあなんて、その子を見ていたら如実に感じられて、ああ、あれからもう随分経つけど、朝の散歩がてらに挨拶するって実は大変なことだなと今更ながらに実感している。あたしもあの子みたいに発語することを忘れているし、あの時は学校っていう輪があったからのど元の軛も外れていたけど今は、輪が無くなった今、意外と誰もが喉に枷をはめたように失語している。結構多くの人が喋る事のほうを異質にするかの如く押し黙っている、本当は多くの人が喋れない人なんだ。あたしはあの時のあの子の気持ちがすごくよくわかるようになった。喋るとか喋らないというものの決定権を環境の方に任せてしまうと簡単に人は喋れなくなる。寝たきりになるのと同じ仕組みなのかもしれない。言葉に含まれる質量に自分で圧倒されてしまうのか、それとも輪の中でないと喋る事が出来ないのか…あの子にとって学校は輪じゃなかった。あの子が喋れなかった理由はただそれだけなんだよね。もしかするとあの子は、昔から輪の遥か外に居たあの子は、あの時学校に居た誰よりも喋れないことに慣れていたわけだからむしろ、今ではもう、外側の世界で普通に喋れているのかもしれない。