育てたハーブの葉の香りを朝の空気と一緒に吸い込む、ああ、流れ込む緑の酸素、自分自身も緑色になってゆくみたい。撒いたクローバーの上に裸足のままの足を置く、ひんやりとした空気の層が植物の根茎に保たれているせいか土は適度に湿り気を保っている。そういえば昨夜はヤモリが今年はじめて顔を出したのだった、彼らは何処で冬を越すのだろう?長い長い冬を。冬季は眩しいのに夏季の朝日は思いの外優しくふわりと広がる。庭でのひと時で心身が緑化される。

思えば生まれた時からアパートや団地住まいで私には庭というものが無かった。ただ偶然にも長年過ごした団地には一つ一つの棟に対して広い面積の緑化地帯が設けられており、窓から見える景色はいつも真緑色に彩られていた…『ここは私の庭、この号棟全部が自分の家で、いろんな部屋の壁を全部取り壊して一つの大きなお屋敷にしてしまおう、そして目の前の芝生は大きな大きな色とりどりの庭にしようか』そんな風に夢想してはため息をついた。というのも目の前の緑化地帯に手出しすることは団地住民には厳禁であったからだ。土や緑は目と鼻の先にあるのにそれを管理するのはタブーであった。自分で何か育てるとすればベランダで園芸するだけに限られる、しかしベランダというコンクリートの箱で植物をほとんど苗のままの分量の土しか与えないというのはどう考えても虐待に等しい気がしていて、私は結局胸の中で植物及び広大な土への欲求を燻らせたまま成人し、逃げるように、あるいは追い出されるようにそこを出た。なんにせよ狭すぎたのだ。土も足りなさ過ぎた、微生物も虫も足りなかった。それから数奇な運命で今の土地に根を張れたのは幸運としか言いようがない。土の庭があるだけで生命の循環を感じられる。生命の循環の中に関与出来るということがわかるだけで身体が整えられるのだ、これはもうそういう気分になるとかそんなレベルの話じゃなく実感として感じられること。今全国に空き家が沢山あるらしいが何と勿体ない事よ。人工物に囲まれているから体の具合が悪い人がどれだけいるのだろうか?…土地も家も高すぎるので私もなるべくここに居座りたい、出来ればここで死にたいが、かなりの胆力を要する。しかしその胆力は庭から得ることが可能だ。食事以外の生命の息吹による神秘の栄養、これは庭と接している限り枯渇することはない。もっと安く大勢に空き家を配分可能になれば、アレルギー問題なども嘘のように解決する人が大勢居るだろうに。ちなみに…我が両親をはじめ、勘違いしている人も居るだろうが庭に実質、金はほとんどかからない、土の手入れを年に一度やれば植物は毎年花開いてくれる。

安らぎが憂いへと変化したのを日向ぼっこに出てきたカナヘビが手足をぴたりと制止させたままきょとんと見ている。小さな気配の差でミツバチが逃げ去る、おお、大丈夫大丈夫、世の中はもったいないことだらけだなと思っていただけさ。施工したレンガの敷居の上を小さなアリたちがせっせと巣穴から出てくる、手に触れたカラスノエンドウが弾けて小さな種が辺りに飛び散る、ここを顕微鏡で見たら大都市なのだ、全てを活用している一つの都市が庭そのものなのだ。活力そのものなのだ。ローズマリーの葉をまた一枚千切る、緑の香りを朝の空気を一緒に吸い込む、ああ心まで緑になってゆくみたい。

健康とはおそらくこのような事を指すのだ、循環の中に幸福を感じられる物事を指すのだ、自然と人工との融合を指すのだ…自然と人工の融合空間、その最たるものが庭だ、だから私は庭が好きだ、おそらく人生で一番必要不可欠なものが庭である。潜在的には結構多くの人が庭の恩恵に与っている気がする。