散文詩【虫歯礼賛】

歯が溶けている…そう思って男は鏡を見た。わざとにやりと笑って見せたり、時に携帯で自分の口腔を写真に撮ったりもした。口角を上げたり口を開けると溶けた部分の歯が暗い穴ぼことなって影を主張しているのがわかり、男は口を閉じた。ほとんどすべての歯が溶けかかっていた。口を閉じようとしても歯並び自体が悪すぎて牙じみた歯の端が唇から一部突き出ている、自分でも嫌だったがこれを他人に嫌がられるのはもっと嫌だった…人前で口を開けないようにするより他あるまい、大口を開けて笑ったりしなければいいのだ、笑わないように…笑わないように…。
『詰まる所迷惑を掛けたくないんだ』
男はそう呟いた。かれこれ幾年も歯医者には行っていなかった、以前行ったときには痛みが酷くて仕方なしに歯科医に対して…まるで腫れあがった局部でも見せるかのように、恥辱を感じながら口を開け、治療を受けたのだ…無論その歯をだいぶ削って石膏で固めて塞いでしまうとそれ以降は通わなかった。その時の歯科医の言葉がぐるぐると木霊した。
『こんなにひどいのはなかなか見たことないよ、君、一体どういう生活してきたの』
あああ…俺は恥ずかしい…自分が恥ずかしい…自分が恥ずかしいからこれ以上恥ずかしい目に遭いたくないんだ…男は絶えずこんな風に言い訳をしていたのだった。歯に関する羞恥心は溜まりに溜まり、30年来ずっと人前で口を開けるのを拒んでいた。いつのまにか男はこんな風に思い込むようになった。
『俺は恥ずかしがり屋なのだ、元々こういう性格なのだ』
こんな取って付けたような逃げ口上を発見して、時折その感傷の渦にどっぷりと浸っていた、そうしている間彼は自分が完全に、外部のどんな視線や価値観からも守られているのを感じていた…だが本心ではわかっていた。嫌なことからただ逃げているだけなのを本心ではわかっていた。その本心と正面から向き合うとさすがの男も自分が情けなくなり、気力を振り絞ってネットで調べ物をした。
『インプラント』
こう入力したのは、最早ここまで歯が溶けていては全部の歯を抜いて総インプラントにする他あるまいと彼なりに察知したからだった…男は無知ながらもそんな風に思っていた。その位、素人目に見ても口腔状況は最悪だった。ホームレスでもここまで酷くは無いように思えた。つまり、この国で最低最悪の歯をしているのを男は自覚し、時に食い入るように敢えて凝視し、嫌悪した。不可思議な事に自らの歯を嫌悪すればするほど彼は奇妙な愉悦さえ覚えた…。そして画面に無数に提示されたインプラントと称されるものの値段を見て…(実際にはたった一つの歯科医院の提示する保険適応外の金額を見て)…男は驚愕した。それは一本35万だった、男は涙した。
『俺には払えない』
しかしその実、この悲劇めいた感情さえも、自分自身が感傷へと逃げ込むのに丁度よい精神的洞穴に過ぎない事を男は本能の段階では知っていた。自分は純粋で、それに対して世間というものは自分の手の届かないところで残酷に動いているのだという構図を彼は心底好んでいた。自分が圧倒的無力者であるという事実を提示されればされるほど、彼は…醜悪さについて感じたのと同じように…一種の快楽に浸るのだった。何もせずに居る事の許される概念に彼は縋りついて生きていた、もっとも、それはこの男に限った事ではないのだが。
『高すぎる、酷すぎる、俺は無力なんだ』
男は自分に言い聞かせるように言った、それは何処か演技めいても居た。というのもその歯科治療の金額は詰まるところ何処か広告のうちの、たった一つの医療機関の提示する金額で在り、そもそもこの件に関してはまず、街の保険適応の歯科へ相談して、もっと調べる事が必要だと彼は判っていたからだ。だがそれをやるには自分の口と対峙しなければならない…。ふたたび、数年前の歯科医師の言葉が木霊した。
『こんなひどいのは見たことないよ、君』
それだけで気力を使い果たしたように思え、男は嫌悪感を紛らわすようにまた鏡を見た。結局彼は嫌悪で嫌悪を紛らわしていた。当然の如く何もしていないのだから歯はとんでもなく酷かった。
貧困層だから病院に行かないのか?貧困を指摘されるのが恥ずかしいから病院へ行かないのか?あるいは生まれたころからろくに歯磨きをしてこなかったのを咎められるから?…要するに自分の人格や存在を否定される恐れがあるから?
逃げ続ける性格をも否定されるのではないか…?
俺自身を否定されるのではないか?
その恐れ全部が口に詰まっている気がした。自分の負の面全部が虫歯に変化している気がした。そしてその負の面自体が自分の本性のような気がして男は殊更自らを恥じたが、しかしこの恥が…全く同時に聖なる恥であるような気もしていた。正真正銘自分自身と対峙しているこの自分を男は、心の何処か妙に客観的な所で褒めていた、自分の純粋さを認めていた、貧しさと恥、逃げ続ける自分をこんなにも直視している自らを、彼自身さえ気づかぬ本心では讃えていた。この、精神の最も内側で為される虫歯礼賛を男は必死で隠そうとした。こうして彼は何重にも包まれ、少しでも自分の精神構造に土足で踏み込もうとする輩からさらに逃れようと常に藻搔いていたのだ。
『俺は隠れたいのだ、俺は逃げたいのだ』
虫歯から端を発した自分の脆弱さ、またその脆弱さを見つめる事の可能な自分の精神への賛歌とそれに付随する気恥ずかしさ、と同時に現実への適応力の低さ…逃れたい気持ちが極限を超えると、決まって男は気分を変えるために外出するのだった、これ以上本心と対峙するのは生命の危機ですらあった。鏡の前から逃れると、今までの人生が常にそうであったように不思議と男は自分の問題を瞬時に忘却した。鏡さえ見なければ虫歯なぞは過去世の事でしかなかった。たまにとんでもなく口の中が臭うような気がしたが茶を飲んだり菓子を食ったり飴を舐めていればばれないような気がした。ただ、口を大きく開けて笑う事だけは無意識的に避けていた。こうしてまた幾年かが過ぎ、やがて数十年が過ぎ…この男は自らの純粋さ(コンプレックス)に執着するが故に、人前で一切笑わないまま死んでいったのだった。