※今から書くことはかなり個人的、私的/下世話な内容になります…あくまでも一個人として朗読しているという認識で居ますので、その点はご了承ください。
『1984年』は、本当に自分の人生が書かれているように思われる。
第二部はジュリアとウィンストンの逢瀬が長々と続く、一見幸福に見えるが…。
そのジュリアが逢瀬の後に『ちょっと、はたいてくれない?髪に枝とかついてない?大丈夫?』と尋ねる場面があるのだが…ぎくっとした。
ワタクシにも覚えがあります、ええ、10代の思春期から、隠れて異性に会って、オナモミの種かなんかを制服につけて帰宅したときにえらく叱られたので、その後ずっと気にしていました、枝とかついていないかどうかを気にしていた。
いや、私、これが破廉恥呼ばわりされる意味が未だに分からないのですよ。
そしてその5年後10年後には唐突に『妊娠』というキーワードが祝福に転じるという現象もいまだにわからない。
『妊娠』とか『セックス』が、それが教え込まれる段階では第一級犯罪のように言われたり、少なくとも現状では楽しむことを否定されるのにも関わらず、成人が済むと唐突に『おめでとう』に変化するのがもう、二重思考としか思えない。
『身体を大切にしないさい!』というキーワードも謎である、処女や童貞をどれだけ守ればいいのだろうか?何が本当の愛で、何が偽りの愛なのか?どっからどこまでがセフレでどこから本気の恋?と当時から疑問に思っていたがやはり今も尚疑問である。
私自身の話になりますが…さらに事を余計に複雑にさせていたのは、私自身が子供時代に性のトラウマ経験があるので、その事実によって自然と周りから『きっと男性恐怖症だろう』『未経験に違いない』と思われやすかった点にある。(今も思われているかもしれない)
哀しいかな、貧しさと厳しさって案外合致しやすいもので、門限や自分の処女性?をひたすら気にしながら『隠れ家』を見つけていました、反抗する気もなかったのでまさに、第二部のジュリアさながら処女の振りをする性のあり方でした。
…案外多くの人がそうだったと思います。
性欲さえ無ければ自分という人間が真に清廉潔白となるような気がしていました。
『青少年反セックス連盟』の緋色の帯は、みんな身に着けているのです。
もっと情緒的なこと…例えば、娘が初体験を済ませたら密かに母親が祝ってやるような雰囲気…蠟燭の灯りがまた次へ密かにともされる感覚…とでも言ったらいいか、良い悪いは別にして、危険だとか社会の仕組みや公平性といった御託は置いといて(そもそも健全なセックスは究極的に不公平なものです)、ひとまず、男女の自発的な共感体験を真っ先に認めてあげるような雰囲気が必要な気がします。
なぜかというと、それをしないと(特に女性は)性に於いて一人きりになってしまうからです。
相手からの要求が度を越えてきたりした場合なんかは、それを相談しようにも、私のような人間が周囲の人にこの種のことを口に出すとやはり唖然とされたり、親からも裏切者扱いされるし、まあ逃げ回っているだけあって簡単に窮地に追いやられがち。
いや、これは男性を責めているのではなくて、結局『緋色の帯』を性概念の導入として推奨している限りは、男性にもお鉢が回って来にくくなっていると思うのです。
…結果、人生のある地点で路上にアダルトDVDを大量に放棄せざるを得ない状況(ゴミ拾いにてこの手のゴミがたまにあるのです、厳重に包まれた古いVHSとかも…)に陥ったりするのでしょう。
そうすると、やれない欲求不満からか小児性愛とかの比率も必然的に(必要悪のような雰囲気を帯びて)上がってしまう気がするのですよ…するとまた、昔の私のような女、ないしは(その実、去勢された存在としての)ジュリアのような女ばかりが、あてもなく彷徨う羽目になるわけです。
そして性概念があまりに孤独である故にか、次の世代の事なんか到底考えられない人間ばかりになってゆくのです…私だってそうです。
思春期の在り方って結構影響が残るような気がするので、10代の時の性がよぎり、第二部はなんだか身につまされる思いで読みました。
客観的に(左脳的に?)読めば1984年第二部は一見ライトノベルじみた、絵に描いたような据え膳展開だが…
実は、この世の悲劇が書かれているように思える。
ジュリアとウィンストンは多くのありふれた男女で、さらには、多くの男女が暗にジュリアとウィンストン(性と子孫とが結びつかない男女)にさせられているような気がしてならないのです…。
(※1984年を手に取ったのは今年の1月で、一般的な考察や映画作品などには敢えて一切触れないようにしていますので、あくまでもこれは私が、とても個人的に感じた気持ちを個人ブログに書き記した次第です。1984年という作品が、ただのSFだと笑い話にできる人は本当に豊かで利発な人だと思いますよ、厭味じゃなく。)