【朗読】1984年 第三部(完)/ジョージ・オーウェル

のっけから完全な私事になりますが…

第三部のオブライエンとウィンストンの(拷問)関係を読んでいると父と私の在り方を思い出す。

恥ずかしながら私は、いわゆる勉強も運動も駄目な人間であるので、父親が必死で躾けようとしていたのだが…如何せん父親本人もまた勉強が駄目なタイプなのだ、一時は週に何回も英語を教わったが、結局英語アレルギーになっただけだった。

子供時代長らく住んでいたのは(実は自殺の名所でさえある)団地で、都内最底辺の高校に進学したときにふと、同じ団地近辺の出身者が多いことに気が付いて、奇妙な気持ちになった。

教育というものは社会不適合者を炙り出すためのシステムでもあると感じるので、仮に私自身の気質がそうであったとしても、こんなに揃いも揃って同学区の人ばかり馬鹿になるかなあ?と疑問に思っていたのだが…

(自分を含む)団地の子たちは単に酸欠だったのかも?と推察した。

子供時代にある程度の睡眠時の酸素量が確保されて育った人は、ある程度のインプット能力が育ち、社会上層部に行ける可能性が高まるのだと思う。

つまり最初から、競争社会等というのはほとんど出来レースなのだなあ…と、父親に怒られながら思っていた。

こちらとしては幼少期から父親が恐ろしい。

よって必死で『頑張ります』とか『できました』と言って勉強らしきことをやるのだが、もう何をやっているのか私自身もわからないし、父親自身にも何がゴールなのか不明だったのだろう…よく、『弁護士になれ』とか『〇〇高校(東大進学率50パーセントの進学校)に行け』とか言われていたが、当の私はこの団地地区ですら馬鹿だったので、毎日家に帰るのが地獄過ぎて…

自宅の事は『懲罰房』と密かに呼んでいた。

当時の自宅はなんと『102号室』だったいやあ~、101号室でなくてよかった(?)

さて、そんなこんなで二十歳くらいになるともう気力も体力も消耗し切って、まさに『大きな栗の木の下』で忘我状態に陥ってしまった感じだ…もちろん、その後、家を出たり勤めに行ったりその時々の男性と漫然と暮らしたりしていたが、あくまでもそれは外側の状態であって、内面はもう完全に死にかけている状態で若い時期は過ぎ去った。

生きているのだが死んでいる。

私がこんなことを書くのは、こんな状態に二十歳で到達(?)している人がごまんと居るからです。

この種の苦しみは個人的なものではなく、大規模なものだからです。

何のために親子揃ってこのような(現実的に言えば勉強の)苦しみを体験したのか全く分からないし、果たしてこの世のヒエラルキー構造が有益に働いているのかも不明である、自分が父親に感じた恐怖は学校そのもにも感じた、つまりこの世の大多数の人の従う『何か』に対峙したときに感じる潜在的な恐怖だ。

この社会の構造そのものを『原理』として善悪や情動の働きを操ることに抵抗がないのであれば、学校や(インプット一辺倒の)勉強というもの、その先にある社会ヒエラルキーについても、案外純粋に受け入れられるのだと思う。

もちろん、私自身にはこの世以外の別の社会構造というものを知る機会は無いので、比較対象が無い以上、どんな代替え案を提示したところで(実地に移されたことが無いので)それがユートピアとして作用するのか、ディストピアになるのかは不明である。

父親と私の関係性は、オブライエンとウィンストン同様、この世の仕組みと個人性との代理戦争だったのだと思う。

そして立場や関係性というものは常に相対的なものであるので、ある時には私自身がオブライエンを演じる時もあるのだ、私自身が現行の社会そのものに一時は成り代わり、個人性を攻撃することもあるのだ、それが必ずしも現実的な意味での他者に対するものだとも断言できない、戦争は内部でも行われる。

話が少し逸れるが、第三部は西洋文学的に言えば『キリスト』の章なのだと思う。

『キリストには簡単には成れない』…でも『キリストになろうとしたウィンストンの闘い』の章でもあろう。

常にキリストは殺される、しかし常に蘇る、誰かがキリストに成り代わる。

『1984』は本当に、『全員の』物語なのだと感じています。

さて…大きな栗の木の下で、ウィンストンのように…それも随分長い間、生きているのだが死んでいた私は、なぜだか少しずつ生き返ってきたのです。

私自身は、大勢の歓喜や落胆には溶け入ることはできませんでしたが…いま、ジュリアを再び探しに行こうとしているのです、『ジュリア』とは個人ではないのかもしれません、自分の声でジュリアの名を呼び、ともかく探しに行こうと…ようやく立ち上がったところです。

1984年生まれの(しかも足の弱い)39歳でこの作品を朗読出来て、とても嬉しく思う。

※ちなみに私が本作を知ったのは今年1月であるので、映画や書評などは敢えて触れないようにして朗読を終わらせましたので、勘違いや間違いなどもあるかもしれませんが、あくまでも個人的な解釈なのだということをご了承ください。