虹と副虹と夢

濁流の如し雨も上がり、早朝に毎日会っているアマガエルも一息ついているように見える。その日は不思議な夢を見て、寝ぼけ眼で夢の名残を探していた。夢の中で若い男女がシャボン玉を吹いていて、小さな公園に七色のシャボン玉が吹き荒れ、その光景を見た私は彼らにシャボン玉を吹き続けるよう頼み、夢中ですべてをカメラに収めようとしている…という夢だった。

さて、起床してから窓を開けると虹が出ていた。

よく見て欲しいのだがこれは二重の虹になっていて、面白いのが、右手にくっきりと浮かび上がっている虹の色の配列と、左にぼんやりと浮かんでいる虹の色の配列が鏡合わせになっているのだ。

右手の虹は上から順に、赤、オレンジ、黄色、緑、青と並んでいるが…左手の虹は青、緑、黄色、オレンジ、赤…と(かなり薄く)並んでいる。

何なんだ…!!!と思い、調べてみるとどうやらこれは主虹と副虹という現象らしい。

何だか夢の中のシャボン玉をそのままこの世に持って来たみたいで、また、虹が二本出ているというのも男女を表しているような気がするし、さらに言うと日本の神様なんかは『柱』という単位で数えたりもするらしいので、何だか虹みたいで面白い。まあ、虹の数え方は普通『一本』だろうが、でもこれは明らかに『柱』というべき異形の神秘現象である…等と考え、嬉しくなった。

私は暫し夢の中で絵を描いたり、写真を撮ったりする。そして夢の中で本を読んだり映画を見たりもする…夢の中の本を持ち帰ろうとするのだが断られ、メモに必死に書き写そうとした事も一度や二度ではない…要するにそういう『夢のデータを目覚めた時の世界に持ち帰るという筋書きの夢』を幾度も見ているということだ。

虹は雨と共に現れるが、いざ豪雨が降ると虹の事はすっかり忘れてしまう。

冠水寸前だが結局冠水しないいつもの川。一昨年前、やたらと冠水する恐怖を消防隊の人に煽られたのだが…いざ冠水しても私はあまり避難したくはないと考えている。消防隊等の人命救助で飯を食っている人には甚だ迷惑で申し訳ないが、脅威というものの恐ろしさは私は普段から感じている分、自然の脅威(驚異)については別に死んでもいいと思って居るのだ。そして脅威に対して保身を貫くのが素晴らしいとも思わない。人命救助を仕事に選んだ見知らずの人に取捨選択の忠誠を誓う意味もよくわからない。なので川が氾濫してもそのまま家に居る事に決めている。こちとら救助隊の為に生きているわけではないのだから。

この辺りの生死感覚は宗教感覚と言ったらいいのか、最早修正できないものであるし、修正される筋合いも互いに無いジャンルの概念である。人を助けたい人は懸命に助ければいいのだ。それは私がゴミを拾うのと同じことで、私は好きにゴミ拾いをするし、ゴミ拾いはやりたい人がやればいいし、心底強要する必要の無いものだと感じている。仮にみんなにゴミ拾いを強要したりポイ捨てを撲滅というスローガンを出した途端に、残念ながらこの行為の真意は無に帰すだろう…そしてまた、ゴミを捨てることでフラストレーションを発散せずに居られない人は、現時点ではそれを選択せざるを得ないわけであるから、それとて仕方がないのだ。

個人で自分の行動を選ぶことくらいは、神様も許してくれるだろうし、全ての自然現象は取捨選択の集合的結果として世に現れているような気がする。夢というものも、この世の一つの結果として構築されている一つの世界なのだろうか…?そうだったら面白いなあ。