危害行為をする人間の孤独はどうしたら癒されるのか

他人との間に全く共感出来るものが無かったり、完全に価値観が異なる場合、やっぱり人は孤独になり、自滅的、加害的になってゆくのではないか…。

遊びまわる子供たちを見ていて、ふと『そういえば私につきまといをしてきたり、明らかに嫌がらせを好むあの初老の男や、その他の加害性小児性愛者共も、元は子供だったんだよなあ、みんなで遊んだりしていたのだよなあ…』と私が呟いたら、それに対して親しい知人が一言、『いや、ああいう奴は元々ああいう感じだと思うよ、子供のころから』と言った。

確かにそうかもなと納得した。そして私自身もまさに『子供のころから変な奴』だったので、変な奴同士の負のエネルギーでどうしても波長が合ってしまうのかもしれない。

みんながうれしいと思う事が私には嬉しくなく、はしゃぐようなことで喜べず、常に選ぶ事柄が真逆だったら…ただ、それでも私は大まかに言うと『人間という種族の中では多数派』だという事が最近とてもよくわかって来た。

人が喜ぶことを自分がしている時にとても嬉しいと思うからだ。そして交流が相互的自発的であればとても心地よいからだ。私が花を見せる、相手はそれを対話で返してきてくれる、それは相互交換で、人間は根源的にこれをひどく嬉しがる生き物なのだ…さらに言えば双方が喜ぶことを一番の幸福と大多数が定義していると思う、この点に於いてまさしく私は例外なく人間の特性を地で行っているので、ごく普通の人という事になる。

この定義が全く当てはまらない人間は、確かに孤独だろうなと思う。私も元来かなり孤独な気質であるが…単に変な奴とか時代に当てはまらないとかいうレベルじゃなく、相互交換が全く嬉しくなく、人に加害行為をしないと気が済まないという性根だったとしたら、信じられないくらいこの世が茶番じみているだろう。変な奴や暗い奴と言っても大半は自分の好きなモノや対象に対しては喜びの相互交換を求めるものだ。人間は嫌いだが植物や鳥は好きだとか…もしその対象と意思疎通が可能だと感じ、幸福を感じているのであればそれは普通の人間である。

それとはまったく別種の人間、自分の好む対象、あるいは憎悪対象、もしくは好んでいるが憎悪対象でもあり得る対象に加害しないと気が済まず、この加害行為以外に『生きている実感』が得られず、従って幸福感というものがそこで自己完結している人間の孤独というのは如何ほどの物だろう?

これは単純に感情が解らない人を言っているのではない。感情や情緒というものはだんだん理解出来るようになるものなので、それをわからない人には人を傷つけようが無いのだ。(傷つけていたとしても。)憎悪や好意という感情を把握した上で加害行為をしていると自覚している人についての孤独、わかりあえなさというのは…どうすれば解決できるのだろうか?

解決方法として、彼らは加害行為を選んでいるのだろうか?嫌がらせやあからさまな暴力行為をすれば泣きわめくというプロセスを、一種の答えのように感じているのだろうか?

これが難しいのは、男女共に自分に内在する暴力性にも同じ部分があると自覚している所だ。だから加害行為をすれば対象が『まるで相互交換時の呼応のように』泣きわめくという現象自体に、『言葉が通じたような快楽』を得る事について、『根源的には誰でも理解出来てしまう』という事。

根源的には人間は皆、私ですらも暴力行為を肯定出来るし、暴力どころか加害行為の快楽も肯定出来る。

ただ一点違うのは、大多数の人はその暴力部分を生きる上での最低限(あるいは限りなく上限)の自発力と感じ、その暴力部分の上に覆いかぶさるかのように、情緒の部分が大きく根付いているという事。

暴力部分しか感じられない人に対し、いくら言って聞かせても無駄だろうと思う。

果たして…生まれつきの気質を咎めることは善なのだろうか?

異常者は排除せよと私も子供のころは(散々な目に遭ってきたので)思ったが、私自身も変な奴であったので自縄自縛のような感覚に陥り、ひどく息苦しい思いをした。この息苦しさ故に他人と理解し合う事が自分にも可能なのだという当たり前の事実にたどり着くまでにかなりの年月を有したし、他人と理解し合えない苦しさを持った人を責めても仕方ないように思う。

加害行為、危害行為が病みつきになっている人、幼少期から危害行為の楽しさを覚え、その暴力段階だけしか知らない未発達な人間に、発達した人間になれ!と言うのも何だか優生主義臭くて嫌だなあ。

私自身、もっとちゃんとした人間になれ!と言われてきたのでこの種の嫌さは身に染みてよくわかる。

犯罪抑止に効くのはおそらく情緒的交流だと思うのだが…加害、危害行為の段階で喜びが(半ば先天的に)止まっている人の情緒能力を伸ばす事など可能なのだろうか?私はいつも、『本当に言葉が通じない人間なんだ』と感じる相手(これは単に変な人じゃなくて、いきなり殴ってきたり襲ってきたりするクソ共の事)に対し、かなり異質なものを感じるのだ、その異質さというのは、誰にでも内在している独善の部分すら空っぽだという感じを受ける。良い部分、優しい部分はおろか、独善やエゴすらも無い、空っぽ…と言ったらいいだろうか?

エゴの強い人や我の強い人が案外いい人だったりするのはこの事による。一方で危害行為に快楽を見出す人というのは良くも悪くもエゴが弱い、エゴというものが無い。エゴが広がるとかいい意味で無自己になるとかじゃなくて、本当に空洞、実際に人間を襲ってくる人間の自我の状態ってブラックホールみたいな感じだった…。(戦争等の大義名分で自動的に殺人をしている時もこのような状態に陥ると思うが…。)

よく、『何かに乗りうつられた』とか『悪魔が俺に指図した』等と、傍目には嘯いているようにしか見えない言い訳をする殺人者や小児性愛加害者が居るが、私には彼らが…彼らなりに精一杯本音を言っているのが実はすごく『理解できる』、理解出来てしまうのだ…接してきたから。

空っぽな人間の幸福を満たす方法を全人類総出で見出さない限り、これからも子供は殺され続けるだろうし、(やはり確率で言うと断然)女は犯され続けるだろう…無論その周りの(暴力への快楽を知っていても情緒面の発達した)正常な(敢えてこういう書き方をさせてもらうが)男も、悲しみという被害を被る。

単なる暴力や危害行為の否定や抑制では、人間全体の根源的活力すら否定してしまうと私は感じる、尚且つ明らかに異常とされる人間をただ排除するだけでは排除の連鎖が続くだけだ。やはり危害、加害行為をしてしまう人たちの為を思わなければ全体が幸福に至る事は出来ない。私自身も、空っぽな人間の幸福をどう紡ぐ事が可能なのか…?自分の身を守る延長線上として、汝の敵を愛すべく模索している。