無視の連鎖

早朝ゴミ拾いは基本的に修行だと思ってやっているので、当たり前だがイイ事ばかりではない。自発的に身体を鍛えている人たちが居る一方で、深酒してゲロを吐いたり、終電を逃して何故だか住宅街まで迷い込んできてしまった人間が漫然と座り込んでいたりする時間帯…それが早朝である。

私が超個人的に『苦しみの道』と密かに呼んでいる大通りがある。そこは並木道ではあるものの、川や公園に比べると若干『人工的』な道なせいか、朝にゴミ拾いをしていてもあまり人から声もかけられないし、そのくせゴミの量だけは他の道に比べて倍くらいあるので放ってもおけない上、ゴミの量が増えれば増えるほどこちらの『世捨て人感』が否応なしに増すので、最早不審者を見る目で見られたりする、ゴミ拾いをする者にとっては文字通り冷たい苦しい場所である。

その冷たい汚い苦しみの道にて、数日前、朝っぱらから一人宴会中なのか、路上の真ん中でぽつねんとごろ寝して、音楽を垂れ流し、しかもアルコール缶や弁当の食い散らかしをそのままにして呆けている男が居た…。私はこのような時には、いっそこちらから『威勢よく明るく』声をかけ、さっさと片付けさせてもらう事にしている。これは頭の中で決めたルールで、実際に花どろぼう殿にもこのように対応した結果、彼とは仲良くなれた。しかしこの種の人たちの大半は、私のようなゴミ拾い人間が視界に入ると何がこわいのか知らないがそそくさと逃げてゆく。今回も、彼は道路の向こう側に居たのだが、私を見るなり音楽を止めて、携帯を見ながらどこかへ立去った。

さて、彼が飲み食いした場所に差し掛かると予想以上に汚れていた。

私は原則、ゴミのポイ捨てをした人を憎まない事にしている。ポイ捨て行為すら憎んでいない。何故かと言うと自分自身がかなり低学歴の劣悪な環境で青春を浪費してきたため、だらけた奴や、性根も生産性も皆無みたいなクソとしか言いようのない人間や、人間性の良し悪しは別にして、単に片づけという概念の無い人なんかを大勢観てきた。だからポイ捨てをする人は『高校の同級生』みたいな感覚で、そういった人たちが「あからさまに」散らかした物なんかを片付けることを、ある意味自分に課している面もある。何もかもが出来て当然、さらに特技も秀でていて当然、みたいな社会は屑にとってはかなり辛いものなのだ…いや、ポイ捨てしてる人が私より馬鹿かどうかは不明なんだけども。

しかし久しぶりに、私はムカついていた。

予想以上に散らかされており、大半は中身の入ったアルコール缶で、それを植え込みに流し込むようにして立てかけている間に残飯を落ち葉で拭い、土に埋め込んでいるこの作業をして、そしてさらに散らかったタバコ類なんかを拾い、まさに大便を拭うが如くのこの処理の間中、久しぶりに私はポイ捨てをした奴をぶん殴りたくなっていた。何故か?自分でも認めたくはないが、やはり…ここは苦しみの道であって、その道を多くの人が何事も無かったかのように通り過ぎて行き、私のやっている事には触れずに、というか私という人間が居たことにも関与せず、無論ここで一晩を明かしたであろう散らかしクソ野郎にも関与せず、見ようともせずに居たこと…潜在的に、そこを散歩やジョギング等で優雅に通り過ぎる大多数に無視されている事に少なからずショックを受けているからなのだ。

断っておくと、私は誰もがゴミ拾いをすべきなどとは一切思って居ないし、誰もが世の中に関して『わかりやすい行動』をしている人に『わかりやすい感謝』を述べるべきとも思って居ない。

世の中の全員に声をかけてもらいたいとも思って居ないし、当たり前だけど適材適所であるのでゴミ拾いも素養のある人(自然への理想があり、潔癖症ではなく、尚且つかなり執念深い性格の持ち主)がやればいいと感じている。だが、物事をうまく回すには、一人一人のパワーを全体的に循環させることが肝心だと思って居て、大変偽善的に聞こえるかもしれないが、たった一声の感謝の念というものが、多くの物事を動かす力を持っている事を…沢山の人が忘れてしまっているように思えてならない。

ゴミが散らかっていても誰もどうとも思わないのだろうか?それを誰かが片付けていてもどうでもよいのだろうか?毎朝自分が走る道なのに??…まあこれって、感謝の強要みたいで申し訳ないんだけど、その苦しみの道ではあまりにだんまりを決め込む人が多く、まるで黙っている事や関与しないことがクールさの秘訣だとでも勘違いしているように思えてくる。

そんな中一人二人居るかいないかくらいの確率で挨拶してくれたりする人が居て、私の行為が辛うじて、これでよかったのだと感じられたりする。だからという訳ではないが、その場所のゴミ拾いも続けている。もし世の中に『個人的に』関与すると決めて実行する人(挨拶にしろゴミ拾いにしろ)が増えれば…たぶん散らかし野郎も減ると思う。誰もが『個人的に』無関心、無関与、無視している場所には必然的に鬱憤を抱えた人が流れ着いてしまうのだ。じゃあ鬱憤というものの正体とは何なのだろうか?何故敢えて道路という公共の場で、モノによる癇癪を起すのだろうか?

おそらく超潜在的には…彼は無視されているからではないだろうか?

誰に?社会にである。多くの『個人』にである。

…それにしても、何であんな場所で飲んでいたんだろうと思いめぐらしてみると、先日、ハロウィンの夜に近くの路線で電車内放火事件があった。その電車が途中停車したのもここからそう遠くはない駅のようで、知人もその電車の一本前に乗っていた。つまり、電車が急に運休になり、何処へ行っていいのかわからないような小規模な駅で帰宅難民になった一人の男が、この事態に癇癪を起して路上飲みして、ゴミ溜めをこさえていたという訳だ。

では何故、件の事件の犯人は電車内放火などをしたのだろうか?それも潜在的には『物理的な次元での』関与を求めていたからではないだろうか?…そうなってくると私も、社会を無視し過ぎたツケを払わされているような気がしないでもない。

ゴミ拾いという行為は確かに無意味である。少しでも環境というものを観察した事のある人間からすれば、ゴミなんてものは風がみんな川へと持って行き、やがては海に行くので路上ゴミというものは放置してもいずれ綺麗になると解っている。しかも昨今は環境保護という概念が政治思想や資本主義にまで結びついているので、ゴミ拾いに関しても、そういった観点から非常に胡散臭く感じている方も居るのかもしれない。

しかし無視は無視の連鎖を引き起こすので、私はゴミを拾うし、目の前にポイ捨てをする人が居たら声をかける。これについては最早殴られることも想定済みである。私が殴られなければいずれ誰かが殴られるだけであるし、あるいは意外なほど性根を変えてくれる可能性もある。早朝ゴミ拾いは修行なので、こういった苦しい思いもたまに、ある。そしてやはり最も苦しいのは、自分自身が、関与するという行為自体が少数派過ぎるために奇異な目で見られたり完全に無視されたりする事である。変な話、ありとあらゆる暴虐行為や犯罪行為の根本的な理由を、同情はせずとも、私はとてもよく理解している人間だと思う。綺麗な場所では、関与という事に関して心を開いている人が必然的に多く集まるせいか、この種の孤独を感じたことはあまり無いが、苦しみの道ではその事について考えないようにして淡々と拾い続けてはいても、ゴミは一向に減らないし、無視の連鎖が続いているのを感じている。そのような時には、自分がたった一匹だけで枯れ葉の中で息を殺しているような気持ちになる。どうか私に力を下さいと、祈っている。