ケガレチ

『念佛 〇〇家先祖代々にまつわる

有縁無縁の霊はこのお茶湯を

受け取って ともに立去ってください

南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛

〇〇家 捨てるわ

無念放開 無念放開』

ゴミ拾いをしているとたまにこういった不可思議なシロモノに出会う。お茶湯如きで天に昇っているのならば諸々の霊等はそもそもこの世に未練など残さないように思うし、親戚と縁を切りたいならさっさと切ればいいじゃないかと思うが…。ちなみにこれが落ちていたのは私がつきまといを受けた(その場所にある時刻に行けばまた受けるだろう)場所の、道路の反対側。

どういう場所かというと、道自体は明るいのだが…川の上に道路を作るために土留めを設けているという構造上、その道路の下の川部分は暗渠というかトンネル状になっていて、風光明媚なこの地域にしてはそこだけ沈んでいるような暗い印象を受ける場所である。

個人的には…やはり…と、その場所の異様さに思わず、一人で頷いてしまう。

オカルト話になるが、イヤシロチとケガレチという思想がある。

磁場がどうのこうのという事らしいが、端的に言うと、良い土地と悪い土地という意味で、私は個人的にはこれは的を得ているように思って居る。しかし広域を指しているのではなく、同じ地域や同じ町内、果ては家の敷地にも、イヤシロチ地点とケガレチ地点は存在すると考える。まあここまで来ると風水思想じみてくるのだが、そんな迷信的な事ではなくて、もっと体感としての良い悪いが常に作用しているのがこの地球であると私は考えている。

仮に人間の勘というものを完全に無視、シャットアウト可能で、尚且つそれが全く苦にならないなら、いかなる土地であれ、第三者がいくらケガレチだと言おうがそんなものは単なる野次に過ぎないと笑い飛ばす事が出来よう。だが私は影を消し去ることの出来ない気質である。風土に負けやすい。そして一定の人が負けると思う。その、風土に負けてしまう者の中に、被害者と加害者という役柄の人々が居る。

土地の持つ癒しの力と穢れの力に参ってしまう人というのが出てくるのだ、そういった人たちが被害者になってしまったりおかしい事をやってしまったりするのではないかと考えている。

これは霊に操られるなどの話ではないので霊感というよりも、もっともっと身体感覚に依ったもので、いいなあと思うか…あるいは、明るいのに暗いと感じたりする違和感、ハッキリ言ってしまうとただの野生の勘の領域の話、しかも少数にしか作用しない感覚の話であるので、いくらケガレチだと私が認定したところで、その場所が非差別的な場所になるかと言うとそうではないのだ。

よってイヤシロチとケガレチというものはあくまで、個人にとってそうであるという体感の湧き起こる場所なので、実に個人的な意味での『合う場所と合わない場所』でしかないのだ。公の意味での穢れた場所というものは存在せず、一定数の敏感な人にとっての良い場所と狂う場所がある…これがイヤシロチとケガレチの正体であると私は思って居る。

さて、では個人的ケガレチで拾った冒頭の除霊用紙?を私はどうしたのかというと…いつも通りゴミとして拾わせてもらった。私にとってはただの紙でしかないのだ。また、野生の勘的に見てもこの用紙にそれだけの功徳があるようにも思えない上、これが川に飛んで行ったらそれこそ川が穢れるだけである。こういうものはたまに拾うが、自分から穢れを取り払おうとするあまり、その穢れ…つまりゴミを、他人様の所へ押しやっているようにしか思えないんだよなあ。この時点で全く霊的効力が無さそうなので、これからもこういったものを拾ったら有難く、淡々と灰にさせてもらう所存である。