語り【音楽家GouTATEISHI(立石剛)の『エマルジョンミュージック』】

GouTATEISHI(立石剛)氏という、新しい音楽概念を提唱する音楽家と奇跡的に知り合えたので、是非この感動を朗読として残しておきたい!!と感じ、矢も楯もたまらず彼の語るエマルジョンミュージックについて文章をしたため、朗読した次第である。

彼の事を紹介してくれたギャラリスト氏と、あわや宗教戦争、というレベルで認識の食い違いについて密かなバトルが勃発したことは…ここだけの秘密にしておこう。私の思考回路を仏教で例えるならば大乗仏教だ。素人も新しい難しいものに触れた方がいい!みんなが救われた方がいい!だからかみ砕いてわかりやすく書物(文章)に残した方がいい!という思想が内在している。

しかしギャラリスト氏や、当の立石氏は割とシビアな小乗仏教主義であり、わかる人だけわかればいいと考えているため…如何せん彼らの説明だけでは難解になりがち。そしてそれを勿体ない!!と過剰に思ってしまったこの私。

当たり前だが、新しい概念を作り出すというのは並大抵の人間には不可能だ。これは能力を磨くとか技術を磨くなんていうレベルの話ではない。数学で例えれば…『新しい公式を発見した』みたいな感じで、どんなに計算が出来ようがこの段階まで意識を発達させることはなかなか難しいのがおわかりいただけるだろうか。

とは言えただの身内(と言う表現は大変おこがましいのだが…)自慢になってしまってもダメ、なんとかして彼の言う『まざる、溶ける』を第三者に伝えられないだろうかと考えて、私としては大変頭脳を使って練った文章がこちら…。

以下自作原文↓

普段私たちが耳にする音楽、というものは
音と音の繋がりや音色やリズムで構成されています。

しかし、これとは全く違う方法で音楽を捉えている音楽家と出会いました。

タテイシ ゴウさん。

彼の場合は
音と音の間にある余白を聴かせる…という音楽を作っているのです。

余白を聴かせる
という事を頭で考えるとちょっと難しい感じがしますが…
実際、彼の音楽を聴くと
音と音の間の無音の場所すらも
『聴こえている』と感じさせられるのがとても不思議です。

彼は、自ら生み出した余白を聴かせる音楽を、エマルジョンミュージックと名付けています
これは音と音の境界線をなじませて、薄くさせて乳化させているという意味もあり

一方では…

この音楽を奏でたときに、音と音、というものがなじんで個体性を失うように
エマルジョンミュージックの流れる空間自体が融合するような感覚をも生じさせるようにとも意図しているのです。

少し科学的な話になりますが
私たちが普段触れる様々なモノ…机、他人、コップ、猫、そういった生物や無機物を問わず多種多様なモノ
それらは一見独立して存在しているように感じられますが
音と音が音波の中で混ざるように
物質というものの成り立ちも
元来
粒子同士の結びつきでしかないのです
そんな曖昧なものを
何故か強固に、頑なに
自分は自分、他人は他人、コップはコップ、机は机…と言う風に認識しているに過ぎないのです。

机やコップもまた、粒子という単位では混ざり合う地点がある…
それを音楽によって感じられる感覚が
人間には元来備わっているし
実際に音の波動として粒子同士の結びつきが曖昧にぼやける、まざる地点が生じると彼は考えています

彼の言う『混ざる、乳化する、溶け合う』これを基準にして制作される音楽…エマルジョンミュージック…この定義は音楽史の新たな一ページが開かれたのではないか?と私は感じています。

現在の音楽概念を超えている…そんなある音の捉え方をしているのです。

収録の際にも
自分自身が空間に溶けたような認識で音楽を奏でるようにしていると彼は語りました。
ですので緊張した状態では、自分と言う存在の個別化が強化されてしまうので
自分も空間に溶けたようにリラックスして
収録に気付かない位の感覚で音楽を奏でるようです。

…さて、昨今、個別化した意識をやたらと特化させる風潮が強まってきたと私は感じます。

物事すべての輪郭を際立たせ
自己の為だけの努力に特化する
それぞれを過剰に分別する個別化意識が
人類に蔓延している気がしてならないのです。
音楽に関しても
集中して聴く
…あるいは…良くも悪くも耳について離れない類の強烈な音が巷に溢れていると感じられます。

これ以上刺激ばかり増やしたら
人間は鈍化する一方であり
これ以上個別化意識ばかりを推し進め
競争したり
個々人を比べてばかりいたら
人間は常に緊張状態に陥り
…元来、人間の体の半分以上が水分であるにもかかわらず
私たちは皆、病的に、氷のように凝り固まってしまい
すぐそばにある
本来私たちと同じ存在だと言えるものにすら
気づけなくなるのではないでしょうか…

電子音や刺激の強い音にばかり触れていたら
人類は…
…余白を聴けなくなってしまうのではないでしょうか…

どんな物事にも余白があり
あいまいな部分があり
その余白、無音の時にこそ
私たちは自ら思考するのです。

余白の瞬間
余韻の瞬間にこそ
私たちは感動するのです。

このような簡単なことを事を忘れてしまうのではないか…

…そんな風に危惧する気持ちもあります。

人間だけに限らず、自分以外だと感じていた存在や物質
空間自体と静かに融合していると感じられたとき
自分と言う存在が解け
混ざり合い
静かに鼓動を打つときに

人は孤独感を逃れ
内面的な幸福を得るのではないでしょうか?

粒子と粒子の結びつきでしかない私たちが
それでも個を保っている頼りない感覚…
これは恐怖ではなく
実は安心感をもたらすと私には思えてならないのです。

90%が水で出来ているクラゲが、存在と非存在の間を揺蕩うように
あいまいであればあるほどに
溶け合うか溶け合わないかの狭間の音楽…

彼の音楽を表すとしたらこんな言葉になると思います。

最後に、全く個人的な見解ですが…
彼と対面して話を聴いたときにこう思いました。

『今現在の科学では、粒子として存在が曖昧に溶け合う事を感覚的に鑑賞出来る音楽』というものは観測不能です。

だけれども
いつか未来には、このエマルジョンミュージックが科学的に解明される時が来るのではないか?

人が孤独を感じたり苦しみを覚えるのは自分の輪郭が強まり
他者との境を強く感じるときであるとも推察できます。

だったら、それを感覚的に解きほぐす作用のある音楽ならば…
いずれ医療音楽として役立つのではないか?とも感じました。

もっとも…
タテイシゴウさん、彼自身の定義するエマルジョンミュージックは
人の為
あるいは癒されるため
何かの為になる音楽ではありません。

意識そのものを解きほぐしてゆく音楽なので
目的のある音楽や
集中して聴いてほしいとすら
思っていないようです…。

知れば知るほどに
余白を感じたくなる
不思議な魅力を放つエマルジョンミュージック。

ぜひ、みなさんも

耳を傾けるともなく
聴くともなく
空間が解けてゆくのを体感してみてください…

(おわり)

やたらと改行しているのは、タブレットで文字を追う時に幅が狭いので改行した方が見やすいからである。

勿論、本家である立石氏からすれば『全然違う…』あるいは『言いたいことの半分くらいは当たってるかなあ…』という駄文だと承知している。

なにせ彼自身が提唱者であり、私はわかっていない人間なのだ。

わかっていない人間が提唱者の言う概念を他の人に伝える等という事が…果たして出来るのだろうか?

何はともあれ、これで一人でも、音楽家GouTATEISHI(立石剛)氏の音楽概念に触れていただけたら幸いである。