エゼキエル書を塗りつぶしつつ

えっ…これを読むの?と二の足を踏みたくなるほどに訂正しまくったエゼキエル書。ある意味では冒涜なのかもしれないが。

さて、エゼキエル書は前半と後半で作者が違う気がしている。

…前半は唐突に幻の場面から始まってグイグイ引き込まれるが、半ばまで来るといつもの預言者お決まりの『悪しき女』や『誨淫』のオンパレード。貴方たちホントは女好きなんでしょ?と突っ込みたくなるのを堪えてそこを思いっきり意訳する。さらに読み進めると何故か十二支族を俯瞰したような状態の文言が続く。

それがどうも序盤の『夢いっぱい』な感じとは違うのだ。後半では建物の長さを延々述べているのだが…まあ、上に行くにつれて面積の広くなる建物とか面白いと言えば面白いのだけれども。

後半の単位については単純にメートル換算するのも手かなと思ったのだが…それだとなんか『エゼキエル節』が失われる気がして…キュビト、がどうも肘から手先までなので腕一本分と表記することにしてみる。もう何回腕何本分と言っているのか自分でもわからなくなってくる、たぶん預言者エゼキエル氏本人もわけがわからない状態だったのだろうという追体験が出来る件に関してはお得だ。

あと困るのが地名。いつも地名は完全省略していたが、さすがにちょっとそれだと話が通じなくなってくるので地名を和訳。

そして家系名も和訳。かなり無理やり和訳。

しかしながらこうして聖書を塗りつぶして意訳している状態は、世が世なら私、処刑されていたかも…。というか聖書原理主義的な思想団体に所属している方には大変な禁忌であろう。

ただ、カタカナをそのまま受け入れすぎてしまう事による弊害って結構あると感じていて、聖書がもし無駄なカタカナ表記を止めて、氏族名や氏名も和訳してくれていたのならば…たぶん聖書を読んでその世界を知れる人ってもっと増えると思うのだ。

全く話は逸れるがエネルギー問題で誰も家庭用ガス式発電機を話題にしないのは何故だろうか?太陽光パネルなんていう火災時に放水不能、台風で剥がれる、何より山や自然のサイクルをぶち壊す類の無用の長物を売りさばくよりも、家庭用発電機を売りさばいた方がよほど世の為だと思うのだが…。これなら原発稼働もしなくて済むし。原発を稼働するかどうかとかの焦点じゃなくて、電線式で電気を移動させること自体が時代錯誤もいいとこなんだからガス式家庭用発電機をもっと普及させればいいだけじゃない?と個人的には思っている。

世の中の誰も、家庭用発電機については議論すらしていない様子だが…私だけ亜空間に居るのだろうか?幻視状態なのだろうか?

エゼキエル書にも散々政治批判が書かれていたり、未来の超エネルギー的な描写が(特に前半の幻のところに)あったりして結構引っ張られる。

恥ずかしながら頭の出来が悪く、気付くと幻を見ているのが私の常であるので、この意訳の為にだいぶ時間がとられているのが非常にもどかしい。