芸術品とゴミの違い、カルマについて

秋の気配がする…鈴虫らしき声が響いている。

西洋歴の印象よりも季節は一段階早足だ。

ゴミ拾いをしているとどうしても、ゴミ、というのもまた人間の創作物なのだよなあと感じられる。創作をすることをどうしようもない情熱でやらなければならない気質に生まれた人、というのは居るもので、私もおそらくそれに該当しているので、つまり…ある意味では環境を悪化させる力に加担しているとも言える。

では美術品や芸術品と、ゴミの違いは一体何なのだろうか?

世間一般には、(世の中には創作意欲というものが生まれながらに無い人も多く居るので)単純に「人に必要とされるモノこそが美術品として後世まで伝えられ、高い価値がついているに過ぎない」とまとめられているように感じられるが…実際には事情はだいぶ異なると私は考える。

美術品や芸術品と呼ばれるモノや概念は、必ずしも人に必要とされるわけではない。

というか、ほとんどの人にはおそらく不必要なモノだと思われる。

それどころか美術品や芸術品は究極的には、所有者か、あるいはそれを欲しがる人にしか必要とされていないのではなかろうか?

一方で道端や川に捨てられているゴミ、至る所に散らばるゴミは、それが家電などの粗大ごみであれ包装用紙であれ缶であれ…実は世の中の大半の人に必要とされているモノなのである。

世の中の大半、過半数の人間にとりあえず必要だと判断されるからこそ大量に生み出されているモノ、これこそが、ゴミ…なのである。

これは数年来ゴミ拾いをしてきてだんだん実感してくることだ。

知人である音楽家氏とも、内容は異なるが…この種の話をした。

彼は音楽については「促される」という表現を用いていた。「促されるからやるのだ」と。

そしてこの「促し」…すなわち自分自身の意思決定を超えた感覚での創作意欲というものが内在するものこそが、美術品や芸術という段階に位置するのではなかろうか?と私には思えてならない。

一種の啓示を受けたモノが、その場に存在し、その啓示が強いほどにモノは神秘的な雰囲気を帯びる。それはモノが凄いというよりもむしろ、啓示が具現化している状態が凄いのだ。これこそを芸術品と呼ぶのだ。

しかしながら私がその段階までたどり着けるかどうかはわからない。なので私のような中途半端な段階の創作欲を持つ人間は、どこかで「啓示を受けていないモノを作り出すカルマ」みたいなものを調整していかないとならないような気がしている。(啓示をそのまま具現化している人はカルマをクリアしているのでこの種の調整はしなくてもよいと感じている。)

…このカルマ調整のためにゴミ拾いをしているというのが本当の所だ。

勿論このような謎理論は、私が個人的に直感したに過ぎないのだが。