【朗読】ひふみ神示/空の巻※5帖の絵について

私はもともと絵を描くのが好きだったので、絵を見てそれを読むということに関しては…あまり壁は感じない。

ひふみ神示空の巻、5帖にて、絵(のようなもの)が出てくる。

絵心のある人で、尚且つひふみ神示を上つ巻から読んでいたのであれば、案外読めるのではなかろうか?

以下に書くことは個人が、個人的に感じた事を、個人的に読み上げる上で言葉に翻訳したものです。

【・(点) ㇲの神 素粒子】

この絵は、絵というよりも…現在作動中のプログラムのように感じられる。

さて…上部に散らばっている沢山の点は、時間の進む方角へ進んでいる(霊界であれば神のほうへ進んでいる存在と、その真中に存在する)ㇲの神のように思える。

よろず、あまねく、偏在する、現れる(現れ出で)といった言葉が浮かびます。

同様に下部に広がっている点もまた、時間の終わりへ進んでいる(霊界であれば外側へ外側へと退行してている働きをする存在と、その真中に存在する)ㇲの神に思える。

ㇲの神というのは、地震の巻にてすべての再中心にある神心の敬称というような存在だと記されていた…これが私の中では、物質や、非物質を構成するいちばん小さなもののように思われた。

ㇲの神=素粒子(※物質界に於いては)みたいな感じか。※勿論個人的な感覚ですのでね。

だから自分の中にも、其処ここにもㇲの神は在るわけです。

【⦿(向かって左側にある)】

⦿←この記号文字はなんとなく日の神かな?と思いました。なんでかと言いますと、どこかの巻(春の巻58帖でした)で月の神を、レ点ふたつを丸で囲ったモノで表していたので、じゃあ対になる日の神かなあと。

【レ点ふたつを丸で囲んだもの(向かって右側)】

これは月の神を現している気がします。厳密にはレ点ではないので、勿論他の可能性も大いにありますが。※春の巻58帖参照

【渦巻(真ん中)】

渦記号にも、よく見ると細かい渦だったり、右から始まるものと、左側が始点になるものとがあったような気がします。まあ、今、現時点で読むとしたら大渦、中今、神の働き、といった感じがします。

【中間部にある折り重なるような山形、ウロコ型のモノ】

これは三千世界という感じがします。一つ一つの山(あるいは鱗のひだ)が、一つ一つの世界を占めていているような…。

これを鱗と読むのだとすれば、『ながものの御姿』の神…とも読めそうです。すべての世を合わせた姿がちょうど鱗の『ながもの(へびなど)』の姿の神とするならば、神の姿がそのようなモノであるというひふみ神示の言葉にも納得がいく。

けど今回はこれを三千の御山、三千世界と読みました…単にそのほうが話がまとまりやすいので。

【以上を以て訳した文】

呼びかけよ
呼びかけよ
一切に向かって呼びかけよ
日の神
月の神
その真中に三千世界のおおうず うず巻きて
神の真中の神心…
三千の御山(おんやま)超えて
神の心の ふみ(文)届く
あまねく よろずよに ㇲの神いまし
すべて
現(あ)れ出(い)でる真中に
ㇲの神 現(あ)れ出(い)で
現(げん)
幽(ゆう)
神(しん)の三千世界の 中今(なかいま)に
ㇲの神あまねく満ち満ちて
うず巻きて
真中に神の神心
月の神と
日の神
鏡合わせにご一体となりなされ
すべては神の真中なり
言霊 高く呼びかけよ
神の真中に呼びかけよ
一切に向かって呼びかけよ…

【何故呼びかけを求めるのか?】

この世の実相を示した絵であることが分かったうえで、ではなぜ呼びかけるのかと言うと…

ひふみ神示には再三、声を出して読むこと、呼応する事、神からの答えに対して呼応する事、また自ら三千世界へ向かって祝詞せよということが語られるからです。

例えば、この世の真理や、実相をまざまざと見て、ただそれを自らの鏡に映しているだけでは、まだ観たとは言えないのだと私には思える。

何かを観たとき、観た!と感じるときには、ほとんど必ず呼応現象が発生すると思う。

さらにそれを明確なものに変化させるには、今度は自らが神の(鏡の)写しとなって、今度は自発的に世界に向けて照射しなければならないわけです。

…これはとても感覚的な話なので伝えにくいが、如何なる時でも呼応が必要、なのですよ、この地点に於いては黙っていることは悪?かもしれません。

すごく原始的な思考回路なので、常識的な思考回路の方にはちょっと理解し難いかもしれないが…、

神からの答えに対して、漫然としているだけではこの世の実相には近づけない、答えに対して呼応せよ。

おそらくこの摂理自体は永久不変だと思う、古代から人間が様々の儀式をやってきたその最たる理由はこれです『呼応すべし』、これに尽きるのではなかろうか?

これが古代は儀式だったが、儀式だけでなく、新しい物事を成すときに必要な閃きが生じたならば、やはりその閃きに対して(この世に於いては物理的に)呼応したほうが現実化が早いわけなので、それが発明にせよ芸術にせよ、やはり呼応は必要なわけです。

したがってこの絵を観たとき、これは今現在も動いているものであり…その直感が働いた時点で、私自身も呼応しなければならないという気がしたので、敢えてこれを言葉にして読むことに致しました。

そして、呼びかけよという文言を入れ、摂理をさらに呼びかけた次第です。