ショートショート【空から落ちてきた名前】

紺碧の空を行く旅人は大きな荷物を抱えていたが疲れのせいかその鞄の紐が緩んでいた。あっ…と思ったときにはこれから名付けるべき名前たちが小さな銀の鈴の音を立てながら雪のように鞄から舞い落ちてしまった。その一つ一つに意味があり、その一つ一つの収集のためにこんなにも長い間旅をしていたのに、時を同じくして遥か下方の地上を夜空を見上げながら歩いていた一人の男が空から落ちてきた名前のうちの一つを手にしていた。名前を読むことは出来なかったが雪の結晶と見紛うそれは男の手のひらに触れるとたちまちに溶けた…と同時に男は自分が今生まれ変わったのを感じ一目散に走り去った。こんなところでぼんやりと過ごしているわけにはいかなかった。この名前は以前大事業を手掛けていた老紳士の名で、彼の死と共に森の奥深くに放り出されていたのを名前収集人である旅人が拾い上げ、しかるべきところへ届けるために大切に鞄の中に仕舞っていたのだった。この旅人は実際何処にでも行けたのだが名前にまつわる時空間に関しては幾度も、超えることの出来ない隔たりが現れた。名前そのものは時として過去から未来へまたは未来から過去へと旅人に送り届けられたりもしていたが…だからといって彼が沢山の名前入りの大きな旅行鞄の紐の緩みを直すために一時前に移動できるかというとそれは否であった。名前が誰かに触れたらその道筋が旅人の次の旅程先に組み込まれるだけでこの件に関して彼からは果てることのない真っすぐな道が前へ前へと続いているに過ぎなかった。

この事情から彼は休むことを許されず永劫の時を旅しているのだった。

また地上の別の女も明け方に奇妙な鈴の音らしきものを聴いて耳をそばだてて音の鳴る方へ近寄った。その時に雪の結晶がはじけて女は気を失い、目覚めてからというもの次から次へと沸き起こる音楽を楽譜に書き起こさずにはおられなくなっていた。旅人はこの様子を見て自らのしくじりを悔いた。他の名前はなんとか空中で拾い上げたがあと幾つかの名前は本来とは別の持ち主へと渡り、そして名付けられた人は周囲に影響を巻き起こしてゆくのだった…いつしか女は世紀の大作曲家となっており、男はこの世の富をほとんど手にした挙句、彼の親族は独立国家までもを築き上げるに至った。これは元来起こり得ない歪みであり、直ちに是正ずべきものであった。この是正のために旅人は宿命的に旅をしているのだが歪みの調整は名前の収集と受け渡しに限られていた。やがて新国家の異常性を感じた人間不変の意識があっという間に戦争を起こさせ黄昏の城は数十年で滅びた、このために流された血の名前を彼は泣きながら拾った。ある一定の音楽が人間に影響し得る可能性のための実験…に於いて大作曲家となった女は争いの時に心を強く保つ音楽を作り、それを聴きながら従軍した人間たちは奇妙なまでに殺戮を楽しんだ。これによって死んだ人々の名前をも旅人は無言で拾い上げた。それらの不幸の元を正せば全て自分に行きあたるのを彼は自覚していた。よって彼の旅は…人類が消滅するその日まで終わらなかった。誰も居なくなった地の果てで旅人は違和感を覚えた。自分の引き起こした歪みのせいか鞄の中にはまだいくつかの、受け渡すべき名前が残っていたのである。旅人は静かに頷くと過去へと足を向け、元来た道を踏まないように注意深く避けながらも前へと続く道を歩いて行った。譬えるならそれは考古学者が地層を掘り進めて過去に行きあたるのにも似ていた。闇夜に小さな焚火が見え、旅人と同じように本能的に道筋を整えるために原始林の中で空を見上げている一人の一族の長に、旅人は一つの名前を受け渡したのだった。

最早大きな旅行鞄の中に残っている名前はあと一つ、イエスキリストを残すだけとなっていた。